2014年12月24日水曜日

谺雄二 『死ぬふりだけでやめとけや』

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今年手にとった和書のうち最高の収穫は、尊敬する編集者のT氏から秋のなかばごろに
プライべートな贈り物としていただいたこの一書です。


姜信子(編) 『死ぬふりだけでやめとけや - 谺雄二詩文集』
                                 みすず書房、381頁、2014年3月20日発行




そして やがてやって来る冬は おれたち「鬼の顔」を 汚濁の歴史の顔を 真ッ二つに断裂く
斬新な冬だ 破壊のときだ! この尾根の上の一切が たたきこわされるだろう 破り棄てられるだろう 総て古いものは崩壊するがいい 砕けろ!

盲目の病友よ きみの眼はきっと 見開かれるだろう 眼をみはって もう一度おれたちの敵を

確認するんだ きみよ怖れるな いまこそあおれたち病者の新時代のために 身を起せ!

月はいま西に陥ちる

さあ 盲目の病友よ おびえていてはならない

ホラ 白根山を越えて 鋼鉄の 破壊の冬がやって来たぞ!         (1958年 「栗生ヶ尾根」より)





しかし妙なもので人生半ばを過ぎると

失ったものよりは残されたものが

らいゆえのいのちのいとしさかなしさが

意外な重みで己れを日常に鎮め

ままよここ一番生きてやれと居直らせもする

だいいちらいが元手のこれも生きざま

まだあかあかと心だって焚ける

まして〈折角らいに罹った〉からには

らいの最期はきっと

わたし自身が見きわめてやると肚をきめる

だからわたしの近況について

さらに賀状にこうかき加えるのである


〈“らいの最期の光芒”を放つため力をつくしたいと存じております〉          (1980年 「年賀状を書く」より)




詩人・谺雄二 2014年5月11日没 享年82歳。合掌

2014年12月17日水曜日

西成彦 『バイリンガルな夢と憂鬱』



















西成彦氏の新著が刊行されました。

西成彦 『バイリンガルな夢と憂鬱』 人文書院、277頁、2014年11月30日発行。

本書は、下記の既出論考六篇をまとめた論集です。
Ⅰ バイリンガルな白昼夢
Ⅱ 植民地の多言語状況と小説の一言語使用
Ⅲ カンナニの言語政策 - 湯浅克衛の朝鮮
Ⅳ バイリンガル群像 - 中西伊之助から金石範へ
Ⅴ 在日朝鮮人作家の「母語」問題 - 李恢成を中心に
Ⅵ  「二世文学」の振幅 - 在日文学と日系文学をともに見て

西氏が記すどのテクストからも放たれる、あるときは深刻なあるときは軽やかな、けっして模倣できない孤高の詩趣とでもいうべきものに、私はこれまでどれほど影響を受けてきたことかと、あらためて思います。

『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波同時代ライブラリー、1998年)に収められた「ざわめく本妙寺」というテクストは、音と声の問題を考えるたびに、わたしがいまでもかならず一度は読み返さずにいられなくなる一篇です。

論集『複数の沖縄』(西成彦/原毅彦 編、人文書院、2003年)で、序文も序論もないこの一書の巻頭をいきなり飾る論攷「暴れるテラピアの筋肉に触れる」 も、目取真俊の文学世界を考えるうえで、初めて読んだときには打ちのめされるような衝撃をうけました。

そして、わたしにとり決定的だったのは、2011年に発表された、あの長期連載稿の集成『ターミナルライフ』にほかなりません。 あなたにとっての『ターミナルライフ』論を書きなさいという課題がもしどこかで与えられたとして、私はこの一書に対し、いったい何枚の原稿をついやせば自分なりに休心できるのか、途方もないような気持になります。

今回の新著のうち、まずは第一章をやや緊張しつつ一読しました(初出は2007年のテクストですが、私は未読だったので)。それは知里幸惠論、ただし、「金田一のあずかりしらない時間のなかで、アイヌ語に拠り所を見出し、夢の作業のなかでもまたアイヌ語との逢引きを頻繁にくり返していた、そんなもう一人の知里幸惠」論でした。論攷の表題として西氏が照準をあわせる「バイリンガルな白昼夢」とは、『アイヌ神謡集』の彼女というより、むしろ若すぎるその最晩年に、幸惠が東京(本郷森川町)で書きつけたノート群・日記類から立ちのぼる、「バイリンガルな胸騒ぎ」の形象であることを知りました。

それぞれの表現者をとらえたはずの苦悩のうちにも、ありえたかもしれない希望を透視する批評の想像=創造。しかも本書が照準をあわせるのは、日本/日本語の内閉的な単一化を「はざま」で食い破ろうとする、近代帝国期のバイリンガリズムの再掘作業となるにちがいありません。

2014年12月9日火曜日

卯田宗平 『鵜飼いと現代中国-人と動物、国家のエスノグラフィー』





























現代民族誌学の注目すべき研究成果がこのほど刊行されました。

卯田宗平 『鵜飼いと現代中国-人と動物、国家のエスノグラフィー』
                                東京大学出版会、367頁、2014年10月31日。

著者の卯田さんは、「なぜ、鵜飼い漁を研究しているのか」とか、「この研究にどのような意義があるのか」といった質問をこれまで周囲から投げられながらも、カワウを介した現代中国の鵜飼い漁について綿密な調査を続けてきました。

漁業は、現代社会における環境の変化に影響をうけやすい生業のひとつであるうえに、カワウという動物を漁獲手段とする鵜飼い漁は、環境変化の影響にいっそう左右される生業であるとの視点が卯田さんにはあったからです。

「鵜飼い漁ではいま以上に漁獲効率を上げようと思っても漁獲手段であるカワウを機械化するわけにはいかない。加えて、カワウは魚食性の鳥類であるがゆえに生物濃縮というかたちで水質汚染の影響を直接的に、あるいは間接的に受ける」(本書まえがきより)

カワウを機械化するわけにはいかない  -だから、鵜飼い漁における技術変化は、旧来の技術を補うかたちで現代的な技術を導入するという「技術の発展的な変化」とは異質な、技術の「展開=再編」をつうじて生業を維持してきた点を、卯田さんは論証していきます。

私がはじめて卯田さんの研究にふれたのは、昨年3月に徳島勝浦郡の月ヶ谷温泉で開催された生態人類学会第18回研究大会でのことです。並み居る若手研究者のなかでも、卯田さんの発表は群を抜いているとの感想を私はもちました。彼の発表でなにより魅了されたのは、1)生業用にドメスティケイトされた獣のうちでも、鳥類という困難な対象を主題としている点、2)鵜飼い漁という生業活動においては、カワウの野生性をけっして滅却してはならないという「家畜化と反家畜化のリバランス論」が力説されていた点、 そして、3)人間(現代中国の鵜飼い漁師)とほぼ同等の視線で、カワウそのものが「物言わぬインフォーマント」として、卯田氏のエスノグラフィーのうちに完全に書き込まれようとしていた点でした。

物言わぬインフォーマントとしての動物は、物を語る人間たちが今日到り着いてしまった社会の姿を、みえない壁の向こうがわから、まぎれもないもうひとつの命として逆照射しているのかもしれません。

東京大学ASNETの大学院リレー講義「アジアの環境研究の最前線」の講義録が、この夏に『アジアの環境研究入門』として東京大学出版会から刊行されました。卯田さんは、本講義録の編者もなさっています。これもおすすめです。


2014年12月2日火曜日

いのちの翻訳 - 社会人類学のために

昨秋、立命館大学国際言語文化研究所で企画された
公開連続講座関連の拙稿が、このほど紀要掲載されました。

「バイリンガリズムをほりさげる」という統一テーマで連続4回
開催された講座の最終回(2013年10月25日)、
「文化翻訳のバイリンガリズム-複数言語のせめぎあいから」
で、砂野幸稔氏(熊本県立大学)の講演に
口頭でコメントした内容をふまえた小文です。

真島一郎 「いのちの翻訳-社会人類学のために」
 『立命館言語文化研究』第26巻第2号、2014.11.28、pp.75-90.

コメント記録の成稿ということで、最初から活字媒体で準備したような整った形式と、口頭によるシンプルなコメントとの中間ぐらいの筆致になりました。

この数年、「いのち」の仮名言葉をタイトルの一部にしたエッセイや講演を、飽きもせずいくども試みてきましたが、おそらくそれらはみな、北条民雄の作品群に深い影響を受けてのことと自覚しています。大正生命主義の末端に自爆した生と、隔離と防疫の対象になりはてた大陸における今此処の生の連関。