2015年5月31日日曜日

日本文化人類学会 第49回研究大会

5月30日・31日に、日本文化人類学会第49回研究大会が大阪国際交流センターで開催されました。

大会初日の30日には、「国際情報発信強化」特別委員会が半年ほどの準備期間をかけて下記のテーマで企画した特別企画「ラウンドテーブル 2015」で司会役をつとめました。
「国際化/グローバル化」の波動と文化人類学
                -複数性の岐路に立って」

大会二日目には、浜田明範さん(国立民族学博物館)を代表者とする分科会
「再分配研究の再始動-行為から集団を考える」
のコメント役を仰せつかっていたのですが、
身内の訃報にふれ、初日夜に急遽会場を後にしたため、分科会席上ではコメント原稿を代読していただきました。

2015年5月25日月曜日

日本アフリカ学会 第52回学術大会

今年のアフリカ学会大会は、
犬山市で開催されました。

日本アフリカ学会第52回学術大会

2015年5月23日・24日
犬山国際観光センター

京都大学霊長類研究所・
公益財団法人日本モンキーセンター  共催

対象とする地域も時代もアプローチも異にした多彩な発表が今年も目白押しのなか、とりわけ心に残る報告にいくつか出会いました。

丸山淳子さん(津田塾大学)の発表「サンの集団間関係史と個人名の変化」は、一見、やや時代がかった社会人類学の論理展開をおもわせるタイトルながら、実際の内容はそんな予想を大きく覆す、エッジの効いたアクチュアルな問題提起-とくに1997年ボツワナの再定住政策がしずかに、しかし確実に惹起した命名法の社会的変化とその波紋-に裏打ちされた斬新なものでした。図表を用いた事実関係の積み重ねにもまったく隙のないパーフェクトな考察の運びはむしろ驚異的で、すっかり脱帽です。

澤田昌人さん(京都精華大学)の発表「ザイールからコンゴへ  国家の変化と継承」は、〈failed state〉の形容をキーワードとしながら、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の国家-社会関係をめぐる過去と現在の実像にせまる、貴重な考察提示でした。長期にわたりアフリカの一国家をひたむきに見守ってこられた澤田さんが現地報道の日付を逐一添えつつ示してくださった個々の内政トラブルは、ザイールからコンゴへの推移のなかで変化したものと変化しなかったものを、事実の重みをつうじて聴き手に突きつける力に満ちていました。キンシャサの街中の風景が、自分の見てきたアビジャンやダカールの風景と奇妙に混じりながら、犬山の会場に突然丸ごと出現したような強烈な錯覚に襲われました。

中尾世治さん(南山大学大学院)の発表「植民地行政のイスラーム認識と対策の空転-ヴィシー政権期・仏領西アフリカにおけるホテル襲撃事件をめぐって」は、歴史の闇にいちどは葬られたかにみえる1941年オート・ヴォルタ(現ブルキナファソ)の「ボボ・ジュラソ事件」の原像を、数少ない先行研究に圧倒的なアーカイヴ渉猟の成果を注入しながら、丹念に掘り起こそうとする試みでした。発表後に中尾さん御本人からいただいた連絡によれば、この事件は、その後、独立前夜に表面化した親植民地派、RDA派双方のイマーム間の角逐にも、歴史の底流として流れている由。対「イスラム系テロリスト」のロジスティックな防疫線がトラディショナル・ドナーの手で西アフリカに設定されかつ強化されつつある2010年代のジオポリティクスに照らしただけでも、重大な意味を孕んだ歴史の深奥の「ヤマ」が、気鋭の若手研究者による努力でいま掘り当てられようとしている、そのように直感しました。

2015年5月10日日曜日

上村忠男 『回想の1960年代』

歴史学者・思想家の上村忠男先生が、新著を刊行されました。

上村忠男
  『回想の1960年代』ぷねうま社、2015年4月23日


ご自身の若き日々とこの国における政治の季節とが鋭く交差した著者の1960年代が、如何ほどの強度をおびてグラムシの思考との格闘に向けられていたかという経緯の委細を、読み手にあらためて差し出し、現在の世界性を深く再考させる一書として受けとめました。

以前御恵送に与った『グラムシ 獄舎の思想』との関連もさることながら、グラムシ『新編 現代の君主』の翻訳作業前後にまつわる時代の刻印が、行文から鮮明に浮かびあがってきます。そうした作品にふれたのは、ちょうど私がウフエ=ボワニを核としたコートディヴォワールの統治テクノロジーについて再考していた折のことでした。目前の主題をまえに、上村グラムシ論がどれほど参考になったかを想起するにつけ、冷戦下日本の60年代と独立直後コートディヴォワールの60年代とが二重写しで迫ってくるような思いもしています。

著作のタイトルには「回想」と銘打たれていますが、
むしろ本書は、テクストの書き手が(国内外の)他者の思考と格闘するプロセスを
あくまで社会理論の水脈としてびっしりと書き連ねていく点で、
一般にイメージされるような「回想録」のジャンルをこえた、破格の理論書として捉える作業が要請されているように思います。過去と現在の懸隔より、むしろある事態の継続こそを読み手として感知できたのは、城塚登や谷嶋喬四郎の講義を学部時代に受講した最後の世代のひとりだから、という因縁によるものだけではないように感じました。