2017年11月17日金曜日

井上康 崎山政毅 『マルクスと商品語』

畏友の崎山政毅さんが、このほど井上康氏との共著で、とてつもなく重厚な理論書を発表されました。本年を締めくくる、と今から確言してもいい、圧巻の一書です。

井上康 崎山政毅 『マルクスと商品語』社会評論社、
                    2017年11月10日発行。

巻頭におかれた「はしがき」を一読するだに、この著作が投じる問いの根源性と射程の深さには、打ちのめされるような思いがします。「はしがき」から、以下すこし引用させていただきます。

「[…] 『資本論』初版(1867年)を世に問うに際してマルクスが求めた読者 […] 『資本論』がわれわれに求めているものをなおざりにした追究は、力能を備えた学知には至らないだろう。そしてそれらの説はなべて、貨幣主義に振り回されている。なぜならそれらの説を論じる者たちは、『資本論』冒頭商品論の最終目的を、資本主義的貨幣の生成の解明だと思い込んでいるからである。 […] マルクスのテキストそれ自体が冒頭商品論の部分で立てている問い、つまり「すべての商品に貨幣存在が内包されることを明らかにするには?」と、その問いの設定に内在する答えとを、確固として前景化させ復権させること - これこそがわれわれが本書で取り組んだ問題の中核に存しているものに他ならない」

「マルクス自身が序文で難解だと述懐しているのだから、 おそらく『資本論』初版を読み解けた人はごく僅かしかなく、ましてや「プロレタリアート」に届く筈もなかったのではないか。われわれは、エンゲルスもまた、『資本論』の、とくに冒頭商品論の十全な読解から程遠いところにいた、と考えている。[…]ドイツ語初版から第二版への「移行」=「改訂」において、叙述の卑俗化が施され、論理の後退が起きているのである。とはいうものの、論理の一方的な後退のみが生じている訳ではない。初版とは比較にならぬほど、ドイツ語第二版以降の冒頭商品論は理解するに容易な、明晰な叙述に変更されている。とくにその明晰さを示す概念が、「商品語」である。これは商品の擬人化ではなく、資本主義的商品が資本主義社会の基底的・支配的主体であることをみごとに表現するものと言っても過言ではない」

「[…われわれが、]1867年に刊行された初版の重要性に気がついたのは、30年ほど前のことになる[…その]転機は、1879年末から1880年初頭にかけてマルクスが書いた[…]アードルフ・ヴァーグナーの『経済学教科書』に対する批判的評注を、あらためて読んだことにあった。ヴァーグナーは『資本論』第二版を取り上げ評注したのだが、その評注に対する批判において、マルクスは、初版を改訂して世に問うた第二版における自説を否定しているのである。[…]ドイツ語第二版による初版の書き換えが叙述上の混乱をきたしていることを自己暴露しているのである」

「[…] 初版からドイツ語第二版、フランス語版、マルクスが没した直後のエンゲルスの手によるドイツ語第三版、そして1890年のエンゲルス編集第1巻=現行版の冒頭商品論を、文字通り舐めるように原文を比較検討しながら読み進め、繰り返し考察を加えた結果が、本書である […] 本書の目的は、『資本論』冒頭商品論の解読であり、それを第二版以降に述べられる「商品語」という概念に焦点をあてたうえで遂行するものである。」

ガーン! なんと根源的かつ壮絶な共同研究。凄すぎる。

つづけて、本書の理路として照準された、当の「商品語」についても、一箇所だけ引用させていただきます。

「[…] 20エレのリンネルは、自分に1着の上着を等置する。この関係において、「リンネルは、ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」とマルクスは言う。これこそまさしく、商品語の〈場〉の特有の在り様だ。言い換えれば、商品語の〈場〉は、人間語の世界のような線形時空をなしてはいないのである。一挙に多くのことが(たんに可算的に多いというだけではなく、非可算的に、と言ってもよい)、語られ実現される。[…] 商品語の〈場〉は、人間語の束縛の次元を超出している。[…このような]商品語の〈場〉を捉えるためには、諸商品がしゃべる商品語を〈聴き取り・人間語に翻訳し・注釈を加える〉必要がある。では、「ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」というリンネルの語るところを、マルクスはどのように〈聴き取り・翻訳し・注釈を加えて〉いるだろうか。」 (pp. 148-149)

本書の元になった、『立命館文学』連載論文の抜刷を、わたしはちょうど3年前、2014年の11月に、崎山さんから直接手渡しでいただきました。わたしがダカールに滞在している間にかれが発表した論文( 「前衛の機械」、「アンデスのアヴァンギャルド」、etc.)の抜刷も。その晩は、多磨や調布の飲み屋を次々とハシゴして、明け方近くまで談論風発、清談と哄笑を肴に痛飲した記憶があります。あのときの紀要論考が、このように巨大な果実となって公刊されたことに、ただ感激するばかりです。

全600頁ちかい大著の付録として巻末に添えられた
「『資本論』初版(ドイツ語)、同第二版(ドイツ語)、同フランス語版各冒頭商品論出だし部分の対照表と各邦訳」も、読み手の検証をうながす、じつに貴重なテクストです。

「『資本論』 初版刊行150年、『帝国主義論』刊行100年という年に本書を刊行できることに深い感慨をもつ。」                                                        (本書「あとがき」より)

2017年11月15日水曜日

いま、なぜ「アフリカ」なのか?

 
なにか、新たなうねりが生じているようです…うれしい驚き。 


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いま、なぜ「アフリカ」なのか? 

11/27(月)『思想』×「東洋経済オンライン」×『WIRED』
編集長トークセッション開催!

https://wired.jp/2017/11/13/africa-talk-session/


岩波書店『思想』「東洋経済オンライン」とのコラボレーション・トークセッションが開催記念!

奇しくも今夏、ほぼ同時にアフリカを特集した『思想』『WIRED』と、アフリカでの激変するビジネスを追い続けている「東洋経済オンライン」。いま「アフリカ」に注目すべき理由を解題する、特別な時間となる[…]。

[…] まず交錯することのなさそうな3つのメディア、『思想』『WIRED』日本版、そして「東洋経済オンライン」が、「アフリカ」という意外なテーマで結びつくこととなった。11月27日に開催されるトークイヴェントでは3誌の編集長が初めて顔を合わせ、それぞれの観点から「いま、どうしてアフリカなのか?」を語り合う。バックグラウンドも、スタイルも、視点もまったく違うメディアの編集長が集う異色のトークは、「アフリカ」のビジネス、思想、カルチャーに注目する人のみならず、メディアビジネスに興味ある人も必見だ。                    (上記リンクページ案内文より)

2017年11月13日月曜日

上村忠男 『ヴィーコ論集成』

 
このたび、上村忠男先生の新著が刊行されました。

上村忠男 『ヴィーコ論集成』みすず書房、
                 2017年11月15日発行。

 上村先生の半世紀以上におよぶヴィーコ研究のエッセンスを集成したといえる本書は、函入り500頁超の大著です。

先生の半世紀におよぶ思想史研究の、さまざまな転機とともに厚みを増していったヴィーコ研究の見取図は、本書プロローグの「ヴィーコとヨーロッパ諸科学の危機」において、まず大掴みに想像できるようになっています。

ヴィーコの思想をまえにするとき、たとえばいかなる論点が、省察の起点にふさわしい問いの本質となり、それがいかにして現在の争点とも接続をとげることになるのか。本書の精読をつうじ、時間をかけてこの点を探究していきたいものです。

「[…]しかし、このデカルトによって切り拓かれた近代ヨーロッパ的な学問方法の危機が意識されるようになってすでに久しいこともまた事実である。知識の確実性を求めて「方法」の研磨に励めば励むほど、その一方で学問の生にたいする有意味性が見失われていく - ニーチェが『反時代的考察』の第二考察「生にとっての歴史の利害について」(一八七四年)において指摘し、フッサールも『危機』の冒頭において確認しているように、端的にいってこのようなアンビヴァレントな状況が、いまやいたるところで露顕するにいたっている。これはまたどうしたことなのか、原因はなんなのか、どこかがまちがっていたのだろうか、どこがまちがっていたのだろう。こう人々は深い不安のうちに自問しつつある」 
                                (本書、 「ヴィーコとヨーロッパ的諸科学の危機」より)

「[…ヴィーコの]『新しい学』における公理中の基本公理である「理論はそれがあつかう素材が始まるところから始まるのでなければならない」という公理 […デ・ジョヴァンニの指摘によれば…] ここには、〈思惟するわたし(cogito)〉の覇権のもとで単一の方法規則を繰り出しつつ事を始めようとするデカルト的始め方とは根本的に異なる、対象の多様性に即応した方法に準拠した真理の探究の必要性についての認識がある[…] デ・ジョヴァンニの論考においては、スピノザの反デカルト主義についてネグリもその線上に位置するところのドゥルーズ的な存在論的解釈と軌を一にした解釈が提示されたうえで、そこにヴィーコといういまひとりの反デカルト主義者にして同時に反スピノザ主義者でもあった人物の思想を比較対照的に並列させてみることによって、ひとつの注目すべき新たな問題局面が批判的に浮き彫りにされている[…]」
   (本書、「スピノザ、ヴィーコ、現代政治思想 - ビアジオ・デ・ジョヴァンニの考察の教示するもの」より)

2017年11月11日土曜日

わたしは、フェリシテ(幸福)

アフリカ映画のたいへんな傑作の出現です。アフリカ映画というより、わたし個人にとってはこれまで観てきた映画のうちでも、指折りの一作。FESPACO出品作のレベルまで設定を高めたとしても、これ以上の名品は、もうしばらく出てこないような気さえします。

『わたしは幸福(フェリシテ)』 Félicité
監督&脚本&編集 アラン・ゴミス     réalisé par Alain Gomis
129m、フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン

          2017年 ベルリン国際映画祭 銀熊賞(審査員大賞)
          2017年 FESPACO (ワガドゥグ全アフリカ映画祭) 長編映画部門金賞(グランプリ)

「彼女は幼い頃に一度死に、そのときフェリシテ(幸福)という新たな名前を与えられた。誇り高く、自分を折ることができない彼女は夫と別れ、バーで歌いながら、女手ひとつで息子を育てていた。賄賂や汚職にまみれたこの街はタフでなければ生きられない。容赦ない毎日。歌うときだけは、彼女のすべてが輝いていた。バーの常連、酔っ払いのタブーは、美しいフェリシテに気があるようだ。ある朝、フェリシテの家の冷蔵庫が壊れる。そしてその日、大切な一人息子が交通事故で重傷を負う。[…] 病院は前払いしなければ手術はできないと彼女に告げる。 金がすべてだ。愛する息子のため費用をかき集めるべく彼女はキンシャサの街を奔走するが……。フェリシテの幸福とは何だったのだろう。病院から戻った息子と冷蔵庫を修理する男。そして歌うこと。[…]」

「[フランスで育ったゴミスにとって…]キンシャサでの撮影は大きなチャレンジだったが、この映画はキンシャサで撮影されなくてはならなかった。完成した映画は、カサイ・オールスターズによる圧倒的なサウンドトラックの魅力のみならず、相対するかのように静謐なエストニア人作曲家アルヴォ・ベルトの音楽が重要な位置を占め、シングルマザーの困窮をリアルな描写で描く前半から深い森の闇の中に魂を見つめていく後半へ。[…]」 
                                 (いずれも、作品パンフレット「イントロダクション」より)

本作の監督アラン・ゴミスは、セネガル人の父とフランス人の母のあいだに生まれ、身近な縁戚関係として、ギニアビサウの一民族マンジャック Manjak のコミュニティとも繋がりをもちながら育ってきた人物のようです。そのかれがキンシャサで制作した本作にとって、上述のカサイ・オールスターズと、キンバンギスト交響楽団 -「キンバンギスト」ですぞ!- の音の力が欠かせざる存在だったことを、鑑賞者はすぐに理解することになるでしょう。移動する家系に生をうけたかれ自身が大いなる移動者であるゴミスのようなひとは、キンシャサの土地に立ち、キンシャサ独自の音にふれることで、「私たちにとってのアフリカ」ならぬ「アフリカである私たち」とその世界性を、たえず省察し、表現することになるのでしょう。

「Q: 映画の最後の詩はどういったものですか?
監督: あれはノヴァーリスの詩「讃歌から夜へ」の抜粋なんだ。面白かったのは、ドイツ語のテキストをフランス語に翻訳し、それをリンガラ語に翻訳したこと。ある哲学者によると、自分の特性の中に他者の空間を許したとき、他者の中に自分をみつけるそうだが、それがこの映画の中にもあると思う。この映画はキンシャサについての映画というより、むしろ「僕たち」についての映画なんだ。夜に呼びかけるノヴァーリスの詩は、今や消えさった19世紀のヨーロッパの伝統の痕跡に繋がっているとも言えるし、そこにアフリカが新しい命をもたらす。アフリカはグローバル化された世界の中心にあり、これからますますそうなっていく。僕にとって、それが現在だ。」
                                        (作品パンフレット 「監督インタビュー」より)

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日本の配給元ムヴィオラによる昨日の試写会で、暗闇のなか手さぐりで走り書きしたメモより。

・ 「夜には表と裏がある」 「おまえの女にもな」  (バーで、だれかとだれかが)

・ 夜のキンシャサで、あんなふうに酔っ払っていびきかいて道ばたで寝てみたい

・ アフリカの日常で、ひとが走ることがどれだけ異常か、ちゃんと何度も伝えてる

・ 森のくらやみの見えなさを、映像としてほぼ加工しないで長撮しするスゴさ

・ 「一人でいちゃダメだ」 (タブーが、サモに)


12月16日より公開: 日本語版公式サイト



2017年11月8日水曜日

松村圭一郎 『うしろめたさの人類学』



「批判」から「再構築」へ 新たな時代の可能性、といういざないの言葉が帯の背表紙部分に記された、松村圭一郎さんのしずかな挑戦。

松村圭一郎
 『うしろめたさの人類学』ミシマ社、2017年10月5日発行。

「できれば人類学とは無縁の人に自分の言葉で届けたいという思い」で綴られた希望のメッセージは、だからこそ、発行直後から瞬く間に多数の読み手を得て、評判の一書となったにちがいありません。

なにより、「構築主義」という学問の表現を逆手にとらえて、これを「うしろめたい」というごく実感的な言いまわしにつなげたことで、メッセージの喚起力をいちだんと高めることができたんだと思います。

「構築主義の視点は、既存の秩序や体制を批判するとき、とても有効だった。[…]でも批判のあとには、どこか虚しさが残る。[…]構築主義には、視点を転換する力がある。でも、その核心は「批判」そのものにはない。もっと別のところに可能性があるのではないか。いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。そこに希望が芽生える。その希望が「構築人類学」の鍵となる。」 (本書「はじめに」より)

そして前半では、経済と感情と関係のつながりが、じつに分かりやすく説かれていきます。

「贈り物である結婚のお祝いは、お金をご祝儀袋に入れてはじめて、「祝福」という思いを込めることができる。と、みんな信じている。経済的な「交換」の場では、そうした思いや感情はないものとして差し引かれる。[…]経済と非経済の区別は、こうした思いや感情をモノのやりとりに付加したり、除去したりするための装置なのだ。[…] 「家族」にせよ、「恋人」にせよ、「友人」にせよ、人と人との関係の距離や質は、モノのやりとりをめぐる経済と非経済という区別をひとつの手がかりとして、みんなでつくりだしているのだ。でも、ぼくらがその「きまり」に縛られて身動きがとれないのであれば、社会を動かすことなんてできない。構築人類学は、どういう視点からそれをずらそうとしているのか。エチオピアの事例から考えてみよう。」(本書 pp.28-31)

「エチオピアの人びとは、よく物乞いにお金を渡している。きっとぼくらのほうが豊かなのに、そんな金持ちの外国人が与えずに、あまりもたないエチオピア人が分け与えている。その姿に、ふと気づかされる。いかにぼくらが「交換のモード」に縛られているのかと。[…交換のモードは] 面倒な贈与を回避し、自分だけの利益を確保することを可能にする。厄介な思いや感情に振り回されることもなくなる。しかし、この交換は、人間の大切な能力を覆い隠してしまう。[…] 身体の弱った老婆を目のあたりにして、なにも感じないという人はいないだろう。でも「交換」のモードには、そんな共感を抑え込む力がある。[…] 多くの日本人は道端で物乞いの老婆を目にしたときも、この交換のモードをもちだしてしまう。いろんな共感を引き起こしそうな表情とか、身なりとかを見なかったことにする。[…]同時にそれは、ぼくらがたんに日本に生まれたという理由で彼らより豊かな生活をしているという「うしろめたさ」を覆い隠す。[…] 共感とその抑圧。これが「構築」を考えるときのポイントになる」(本書 pp. 34-37)

「エチオピアの村で暮らす[…]人びとは、「民族」や「宗教」、「言語」といった固定した枠組みだけをもとに、「関係としての社会」を築いているわけではない。ともにコーヒーを飲み、たわいもない噂話に興じたり、体験談をおもしろおかしく話したりしながら、ひとつの「つながり」を実現させている。[…]「社会」というと、自分たちには手の届かない大きな存在に思えるかもしれない。でも、それはたぶん違う。[…]他人の内面にあるように思える「こころ」も、自分のなかにわきあがるようにみえる「感情」も、ぼくらがモノや言葉、行為のやりとりを積み重ねるなかで、ひとつの現実としてつくりだしている。この、人や言葉やモノが行き来する場、それが「社会」なのだ」(本書 pp. 80-82)

以前このブログでもご紹介した、池田昭光さんの「流れに関する試論」や「宗派の外部」も彷彿とさせる、みごとな解説につづけて、本書の後半では、「国家」や「市場」と「ぼくら」との関係が説かれます。

「国家という制度は、かならずしも上からの「権力」によって押しつけられているわけではない。一人ひとりが、意識するしないにかかわらず、日々さまざまな行為でその機能を内側から支えている。[…] 国家が決めた制度を使う人がいなければ、その制度は機能しなくなる[…逆に]誰もがその制度をあたりまえのものとして受容すればするほど、その制度は確固たるものとして、みんなを縛りはじめる。ぼくらは、こうして「国家」とつながっている。[…]でも、「わたし」の存在が国家と不可分だとしたら、「わたし」が変われば、「国家」も変えられるかもしれない。[…]自分の身体と国家の領域についての複数の想像力を手にすれば、少なくとも「わたし」と「国家」との重なりをずらして、そこに「スキマ」をつくれるはずだ。でも、どうやって……。」(本書 pp.100, 112)

「ぼくらは「国家権力」や「市場原理」といった言葉に惑わされてきた。[…]国家や市場は、あくまでいろんなかたちで連結し、依存し合って存在している。その依存の輪のなかに、「わたし」もいる。[…ただし/だからこそ、たとえば] その市場のとなりに「贈与」の領域をつくりだし[…]親密な関係をつくることもできる。現にぼくらは、そうやってささやかな顔の見える「社会」を構築している。[…]強固な「制度」のただなかに、自分たちでモノを与えあい、自由に息を吸うためのスキマをつくる力。それがぼくらにはある。国家や市場による構築性を批判するだけではなく、自分たちの構築力に目を向ける。それが構築人類学の歩むべき道だ。」(本書 pp. 153-154)

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うしろめたさの人類学であり、構築人類学であることとは、いわばスキマスイッチのあくなき探索宣言でもあったこと。論旨の基軸はそれゆえ、今夏の『思想』アフリカ特集号に松村さんが寄せられた力作 「分配と負債のモラリティ」とも、みごとに連動しているように思います。本書を贈ってくださったときの書状には、「(私なりの)インストール・アフリカ第1弾です」との一言が書き添えてくれてあり、わたしにもすぐさま、スキマスイッチが点灯。

本書には、 松村さんが最初にエチオピアを訪れたときの日記が、効果的なコラムのような体裁で、章と章のあいだに配置されています。これがまた、なんともみずみずしい記述。すごくいい、グッとくる、と感じた箇所だけでも、ここで紹介させていただきます。

「[…]そこでインジェラ(クレープ状の主食)と羊肉のスープを注文。出てきたものは、色が真っ赤。味は、それほど辛くない。おいしい。ほんとにおいしい。[…]」

「[…]ひとりのおじさんに声をかけられる。酔っ払いだ。[…] 彼のよくわからないアムハラ語で自慢話を延々聞かされて、うんざり。Sたちも合流して、一緒に夕食を食べ、飲み屋を回る。ドラフト・ビールを飲みすぎた。おれも酔っ払いだ。」

「[…]灯油を買いにガソリンスタンドまで。雲行きがあやしい。風も強まる。まもなく雨。しだいに強まる。抜け道を走る。ひさしぶりに走った。リクの実家へ逃げ込む。汗をかく。暑い。激しい雨が降り続く。」            

2017年11月4日土曜日

チゴズィエ・オビオマ 『ぼくらが漁師だったころ』

                               秋の読書界に、粟飯原文子さんがアフリカ文学の
たいへんな贈り物を届けてくれました。ナイジェリア出身の1986年生まれ(!)の作家、チゴズィエ・オビオマの、まさしく衝撃のデビュー作です。

チゴズィエ・オビオマ  『ぼくらが漁師だったころ』
   粟飯原文子 訳、早川書房、2017年9月20日発行。

  厳しい父がいなくなった隙に、アグウ家の四人兄弟は
学校をさぼって近くの川に釣りに行った。しかし、川のほとりで出会った狂人は、おそろしい予言を口にした-。予言をきっかけに瓦解していく家族、そして起こった事件。一九九〇年代のナイジェリアを舞台に、九歳の少年の視点から語られる壮絶な物語。    (本書 表紙袖の作品紹介文)

 チゴズィエ・オビオマ Chigozie Obioma
 1986年、ナイジェリアのアクレに生まれる。ミシガン大学大学院創作課程を修了。2015年に発表したデビュー作である本書は、ブッカー賞最終候補に選出され、ロサンゼルス・タイムズ文学賞やフィナンシャル・タイムズ/オッペンハイマーファンズ新人賞など四賞に輝き、アフリカ文学に新星が現れたと英米文学界の話題を独占した。現在ネブラスカ大学リンカーン校で教鞭を執る。
               (本書 裏表紙袖の著者略歴文)

「…まだ最初の70ページほどを読んだだけですが、はじめから黙示録的な空気がたちこめているような作品で、緊迫します。(きのうはこれで電車を一駅、乗りすごしました…)」と、敬愛する粟飯原さんに訳書ご恵送の礼状をしたためたのが、9月の末。それからわたしは、覚悟を決めて、できるだけ時間をかけ、この訳書を味読しました。事件の到来とみなしてよい、真の意味での傑作。それが本作にたいするわたしの率直な読後感です。

現実の歴史のなかで作家が生きた限定的な時間と場所を、かれの生みだした作品がすぐさま圧倒的に凌駕し、乗り越え、いかなる読み手の情動にも、物語そのものの衝撃として次々に鮮烈な憑依をとげていく事態。

アフリカ文学でいえば、そうした事件は、ほとんど唯一、トゥトゥオラの作品群について発生した奇蹟であるように、これまでわたしは捉えていました。

発表当時の国内外の文壇で『やし酒飲み』がいかなる毀誉褒貶の対象となり、やがてはビアフラを経験してしまう独立前夜以降のナイジェリア政治史がトゥトゥオラ個人の生にいかなる陰影をおよぼしたにせよ、『やし酒飲み』が放ってやまないあの無尽蔵に強烈な力は、その種の「歴史」をはるかに超越していることを、読み手の多くは衝撃とともに作品それ自体から受けとってきたように想うからです。

簡潔ながら切れ味の利いた粟飯原さんの「訳者あとがき」では、この作品が、1990年代以降の国政の混迷ぶりを背景とした、ナイジェリアの「失われた希望の挽歌」であったことが印象的に説かれています(本作に登場する「M・K・Oカレンダー」のエピソードをいま想いだしても、わたしは胸が張り裂けそうになります…)。

そして、それと同時に、西アフリカのナイジェリアで生まれ育ったのち、キプロスでの滞在を経て、現在はアメリカへと移り住んでいるオビオマが、自分の作品を「ナイジェリア文学」や「アフリカ文学」のカテゴリーに押し込めるような扱いを拒絶していることも、粟飯原さんはバランスよく読者に示します。

「[オビオマは…]二〇〇九年、キプロスで暮らして二年が経過したころ、突然ホームシックに襲われた。そのとき、しばらく前に父親が電話で嬉しそうに語っていたことを思い出す - 総勢十二人きょうだいの「大連隊」において、成長過程でしばしばぶつかり合い、殴り合いの喧嘩もしていた上の二人の兄たちが強い絆で結ばれるようになったということだった。そこから、きょうだい愛や家族の絆について思いを巡らせるうちに、その対極の最悪の状態とはどういうものだろうと想像を膨らませ、アグウ家の悲劇の物語が浮かび上がってきたのだそうだ。『ぼくらが漁師だったころ』は普遍的な家族の絆とその崩壊の物語である、とオビオマは述べている」 (『訳者あとがき』 p. 371)

そんなオビオマが敬意を払ってきた作家のひとりがトゥトゥオラだという「訳者あとがき」の情報に、わたしはすこし茫然としました。まさにそれこそ、作品を味読している途中のわたしが想像していた通底器の姿だったからです。

「オビオマがトゥトゥオラに敬意を払うのも、トゥトゥオラの一般的には「土着的」と評される作品のなかに、「ギリシャ悲劇とシェイクスピア悲劇の混在」が読み取れるからである」 (『訳者あとがき』 p. 377)

ここでいう「ギリシャ」や「シェイクスピア」といった固有名から誤って受けとりかねない文化帝国主義の罠から逃れたければ、たとえばおなじナイジェリアのティヴ社会について、人類学者ローラ・ボハナンが1966年に発表した有名なテクスト「叢林のシェイクスピア」を一読してみればいいでしょう。(http://www.naturalhistorymag.com/editors_pick/1966_08-09_pick.html、邦訳もあり)

いずれにしろ、この作品『ぼくらが漁師だったころ』でオビオマが描きだした壮絶な悲劇には、トゥトゥオラの作品にほぼ匹敵する水準で、限定的な時空を超越した、物語の奇蹟が宿っている。読みすすめるごとに、わたしはその確信を深めていきました。

「蜘蛛は悲しみを背負う生き物だ。悲嘆に暮れた家に住みつき、糸をどんどん吐き出して、静かに、痛みを抱えながら巣を張り続け、ついには巣は大きく膨らんで、広い範囲を覆ってしまう - イボの人びとはそう信じている[…]蜘蛛はわが家に巣を張り、一時的な住み処を作った[…]蜘蛛たちはさらに一歩踏み込んで、母さんの心のなかにまで侵入してしまった[…]」(pp. 217-218)

「憎しみは蛭(ひる)だ。[…]憎しみは蛭のように肌に吸いつき、表皮にどんどん食い込んでいくので、皮膚から引き剥がそうとするとその部分の肉を傷つける。憎しみを殺すことは自虐行為なのだ。かつて火や熱したコテで蛭を焼くと、皮膚も一緒に焼いてしまっていた[…]オベンベの決意は、まさに蛭のようだったが、あまりに深く埋め込まれていたので、火を使っても、なにを使っても、取り除くことはできなかった」 (pp. 256+259)

「バヨさんはぼくの手を取って、ハンカチをそっとわたしてくれた。「さあ、涙を拭いて」
 ぼくはハンカチに顔を埋めて、ほんの一瞬でもいいから、燃え盛る炎に包まれた世界から逃れようとした。ぼくを、こんなちっぽけな蛾を、抹消しようとしている世界から。」(p. 348) 

「「ぼくらは漁師でした。兄さんたちとぼくは漁師になったのです-」
 突然、母さんが甲高い声をあげて絶叫し[…]」 (p. 365)

作品の筋書きに直接ふれないようにするには、これ以上の引用は困難です。読んでいる途中でわたしは、中上健次が23歳で発表したデビュー作「一番はじめの出来事」と、バタイユのつぎの一節を想起したことを、備忘録代わりに記しておきます。

「[…]供犠とはある意味で一個の小説、血なまぐさい形で解説された一篇の物語であった[…]ふだんは戦慄や不安のなかで与えられることのないものが、供犠において - または文学において - 人を魅惑する[…]供犠において人を魅惑するものは、ただおぞましいだけではない。それは神的である。それは供犠に適う神 - 人を惹きつけるが、死のなかへの消滅というただひとつの意味しか持たない神 - である。戦慄が介在するのはひたすらある魅力を引きたたせるためであり、この魅力は、犠牲が苦痛に満ちた最期へと進んで身をさらすことがなければ、強度を失うように思われるであろう。
 小説が供犠の運動の持つ厳密さに到達するのはまれである。」

     (ジョルジュ・バタイユ 『普遍経済論の試み 第二巻 エロティシズムの歴史』より、湯浅博雄・中地義和訳)

2017年11月1日水曜日

ヘイドン・ホワイト 『実用的な過去』

ヘイドン・ホワイトの最新の論文集が、このほど翻訳刊行されました。

ヘイドン・ホワイト 『実用的な過去』上村忠男 監訳、岩波書店、
                           2017年10月27日発行。

フリードランダーが編集した1990年の会議記録(『アウシュヴィッツと表象の限界』未來社、1994年)以降、本年編訳された論文集『歴史の喩法』へといたるホワイトの思考の道程が、上村先生の訳業としても太い流れを形づくりながら、極限的な出来事の表象可能性をめぐる問題を再度問いなおす地平へと到りつく。その長きにわたる省察の成果が、本書所収の論考群、とりわけ「フィクションとは、歴史の抑圧された他者である」というミシェル・ド・セルトーの言葉をエピグラフに掲げた「実用的な過去」で結実しているように思います。

「[…]わたしはかつて『メタヒストリー』において、どの歴史叙述作品も歴史についてのなんらかの全体的な哲学を前提としていると論じたが、それと同様、いまのわたしは、どの現代小説もなんらかの歴史哲学を前提としていると論じるだろう」(p. 34)

[…たとえばトニ・モリスンの傑作『ビラヴド』において…]自分の物語の主役の考えを発明するために、モリスンが弁明せずに責任を受け入れ、[記述の]信頼性を損ないかねない歴史を再構築するために立てた仮定の結果を引き受け、そしてそうすることでモリスンは、現在の自分の状況と共鳴する仕方で過去を扱う自由を主張しているのである。というのも、彼女が正しく指摘したように、「奴隷制」という「領野」は、恐ろしく、未開拓であるばかりか、人を寄せ付けず、隠されており[…]主題にかかわる事実をひたすら列挙すること以外しようとしない歴史家たちによって、少なからず「意図的に葬り去られている」からである。歴史叙述家にはけっして想像することができないような、詩的な想像力に対してアクセスが開かれている 《声高に叫ぶ幽霊たちが漂う墓地に住まいを構える》とは、こういうことなのだ」(p. 38)


あるいは、コンジャリングを、記述に託した書き手の上演として目撃すること。