2017年2月27日月曜日

グラムシ 『革命論集』

グラムシ『革命論集』  文庫版にて新訳刊行!

アントニオ・グラムシ『革命論集』
上村忠男 編訳、講談社学術文庫、
2017年2月10日発行。

「本書は、アントニオ・グラムシが1914年から26年11月8日、前日に成立した国家防衛法違反の容疑で逮捕・収監されるまでの時期、すなわち、社会主義・共産主義革命の実現にむけて宣伝・煽動活動を展開していた時期の主要な論考を選んで訳出したものである」。
            (上村忠男 「編訳者あとがき」より)

日本語への初訳もふくむ57篇の所収テクスト、全600ページ超のボリュームをほこる点でも、獄前期グラムシの決定版といえる一書です。

逮捕1ヵ月前に執筆された「南部問題のいくつかの主題」にくわえ、おなじ1926年のイタリア共産党第3回大会で報告された、トリアッティとの協議執筆による大会テーゼも、本書には収められています。

このブログでもすでに記したかもしれませんが、
獄中記のグラムシについては、上村忠男氏の仕事のうちでも訳書『新編 現代の君主』(1994年、青木書店)や『グラムシ 獄舎の思想』(2005年、青土社)からかねて多くを学んできたところ、獄前期の思想に特化した今回の訳書刊行で、あらためて大きな宿題を上村先生からいただいたように感じています。

2017年2月22日水曜日

レジームとしての「共同体」/「副大統領」

今月になって、下記論文2篇の抜刷をそれぞれ著者から贈っていただきました。いずれも、おおきな枠組でいえばアフリカの政治体制にかかわる考察です。

岩場由利子
  「「共同体」制定過程にみるフランス第五共和制憲法と脱植民地化」『現代史研究』62:1-17、2016年。

鈴木亨尚
  「副大統領をめぐる政治-アフリカを中心として」『亜細亜大学アジア研究所紀要』43:45-131、2017年。

現在ボルドー留学中の岩場さんの論文は、フランス第五共和国が発足した1958年からわずか2年間のみ、フランスがサブサハラ・アフリカの当時の「海外領土」をふくめて規定していた「共同体 Communauté」の概念を制度史のレベルで再考するというきわめて興味深い試みです。 

「援助協力体制の構築を図りながらアフリカ側との関係をより強固なものにしていくフランスと、憲法の隙を突きながら連邦や関税同盟を形成し構成国同士で結束を高めていくアフリカ側の様子は、それぞれ別のベクトルを志向したものである。しかしながら、フランス・アフリカの協議を経て共通分野と独立権を盛り込んで組織化された共同体は、その後の両者の協力体制を前進させたのであり、決して通過点として軽視できる存在ではない」
(同論文、p.15より)

鈴木さんの論文は、 昨年発表されたご論考「大統領の多選制限をめぐる政治-アフリカを中心として」の続編として執筆されたものです。とくに、複数政党制下の「ビッグ・マン」を考察対象としたラリー・ダイアモンドの大統領制論をふまえて、民主主義との関連で「副大統領をめぐる政治」に焦点をあてた示唆に富む比較制度論となっています。事例として言及されているのは、ナイジェリア、ザンビア、マラウイ、赤道ギニア、南スーダン、ブルンジ、南アフリカ、セネガルの8ヵ国です。

岩場さん、鈴木さん、貴重なご研究の成果を、ありがとうございました。

2017年2月15日水曜日

伊東剛史・後藤はる美 編 『痛みと感情のイギリス史』

東京外国語大学出版会より、下記の論集を
来月刊行する予定です。

伊藤剛史・後藤はる美 編
『痛みと感情のイギリス史』
東京外国語大学出版会、2017年3月刊行予定。

[出版企画概要より]
17~20世紀のイギリスをフィールドとして、神経医学の発達、貧者の救済、聖職者の処刑、宗教改革期の病、魔女裁判、夫婦間の虐待訴訟、動物の生体解剖 などを題材に、6名の研究者が史料に残された〈生きられた痛み〉を照らし出し、感情史の射程と、それを取り巻く問題を説き明かす。

[目次]--------------------

無痛症の苦しみ(伊東剛史)
 

Ⅰ 神経 医学レジームによる痛みの定義(高林陽展)
 

Ⅱ 救済 19世紀における物乞いの痛み(金澤周作)
 

Ⅲ 情念 プロテスタント殉教ナラティヴと身体(那須敬)
 

Ⅳ 試練 宗教改革期における霊的病と痛み(後藤はる美)
 

Ⅴ 感性 18世紀虐待訴訟における挑発と激昂のはざま(赤松淳子)
 

Ⅵ 観察 ダーウィンとゾウの涙(伊東剛史)
 

ラットの共感?(後藤はる美)
 

痛みと感情の歴史学(伊東剛史/後藤はる美)
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この概要からもうかがえるように、本論集が感情史研究の最前線の仕事として話題にのぼることは、まちがいように思われます。 論集の刊行に先立って、このほど紀伊國屋書店の電子情報サービス KINOLINEも、じつにエッジの効いた情報ページを立ちあげてくださいました。 

『痛みと感情のイギリス史』と Eary English Books Online
      - 伊藤剛史先生・後藤はる美先生・那須敬先生 座談会
http://www.kinokuniya.co.jp/03f/denhan/chadwyck/umi/eebotalk.htm

編者の伊東剛史さんと後藤はる美さんに出版会編集事務室でいちどお会いしたさいにも、論集の熱気は存分に伝わっていたのですが、今回の情報ページは、EEBOのとてつもなく巨大な存在感もふくめ、知的刺激にみちています。座談会中の発言をふたつだけ、以下引用します。座談会全文を、ぜひ上記ページでご一読ください。満を持して来月刊行の論集本体も、ぜひお手にとってくださるよう、みなさまにお願いします。

伊東先生
 「一言でまとめれば、痛みとは何かという問題を、歴史学の視点から考えてみたものです[…]痛みがわたしたちの生に対して根源的な問いを投げかけるという理解は、もしかしたら歴史を通して一様だったわけではないのかもしれません。[…]歴史を辿り、時間を遡っていくと遂には痛みという言葉、つまりpainという文字が(少なくとも私たちの想定するようなかたちでは)資料に登場しない社会が現れます。 たとえば、17世紀半ばにクリストファー・ラヴという牧師が大逆罪により処刑されました。その処刑は、斬首刑で、公開され、多くの人々の注目を集めました。 しかし、処刑の様子がどれほど痛々しいものだったのか、ラヴ本人が経験した苦痛はどれほどのものだったのか、これを直截的に想像させる史料は残されていません。 もちろん、だからといって当時の人々は痛みを感じなかったのかというと、そういうわけではありません。 そうすると、そういった時代の、そのような社会での痛みはどういったものだったのだろうか、私たちの捉えている痛みの感覚とどのように異なっていて、どのように繋がっているのかという問いが出てきます[…]」

 那須先生
 「我々17世紀のイギリス史をやっている研究者にとってEEBOとは、British Libraryのリーディング・ルームに座るようなことなんです。 リクエストすればなんでも出てくる。それに取り替わったという感じですね[…]だから、何にせよ調査を始めるときには、まずEEBOを引く。二次文献を読んでいて、面白そうな一次史料を使っているなと思ったら、すぐEEBOで確認する。EEBOは図書館なんですよ。まず図書館に行くようにまずEEBO。そういう感じですね。」

2017年2月7日火曜日

ルフォール 『民主主義の発明』

クロード・ルフォールの主著が、このほど日本語訳で刊行されました。

クロード・ルフォール著
『民主主義の発明 - 全体主義の限界』
渡名喜庸哲・太田悠介・平田周・赤羽悠 訳
勁草書房、2017年1月25日発行。

原著: Claude Lefort, L'invention démocratique. Les limites de la domination totalitaire. Paris: Fayard, 1981/1994.

もし「全体主義」と「民主主義」の両者が互いが互いを前提とするような不可分のようなものなのだとすれば、「全体主義」の姿を「限界」まで追跡することなくしては「民主主義」そのものの意義についても理解できないだろう。「全体主義」とはそもそも何か、今日われわれがさしあたり「民主主義」だと思っているこの社会は本当にそう呼ぶのにふさわしいのか- そもそも「民主主義」って何だ、そうした問いを提起しつづけようとする者には、ルフォールの硬く鈍い衝撃は確かに伝わるにちがいない。 (本書所収、渡名喜庸哲「解説 クロード・ルフォールの古さと新しさ」より )

非常に喚起力のあるこの解説論文では、ルフォールの政治哲学における基本的な論点が、さらなる問いをうながすしかたで、二点明記されているように受けとめました。
ひとつは、 「全体主義国家は、民主主義に照らしてしか、そして民主主義の両義性にもとづいてしか把握できない」という、ルフォールの基本テーゼ。
ひとつは、 「政治的なものの場を、「人民」や「群衆」といったなんらかの主体なり実体なりによって占められることのない「誰のものでもない場/空虚の場」として捉え」るという、ルフォールの基本了解。
そして、これらふたつの問いが交叉する地平に、全体主義と民主主義の分節=節合点が現れてくることになるのだと思います。

権力という空虚な場に、大文字の〈人民〉が埋め込まれ〈一なる身体〉として凝固しつつ全体主義へと転化するのを妨げるために、民主主義はつねに内的抗争を通じて自分自身を多数化させ、自らを「ふたたび創出=発明するréinventer」必要がある……  (渡名喜「解説」p. 407および ルフォール本文p. 369より。一部編集)

渡名喜さん、太田さん、平田さんの連名で、本訳書の御恵送にあずかりました。
このたびのすばらしい贈り物、ありがとうございます。
共同研究の一環で、あの運動の現場、周防灘・祝島に渡名喜さんと一泊した晩が昨日のことのようです。