2021年11月30日火曜日

2021年11月1日月曜日

アナキズムを読む

 このほど皓星社から、『アナキズムを読む』が刊行されました。

田中ひかる 編『アナキズムを読む 〈自由〉を生きるためのブックガイド』皓星社、2021年11月5日発行。 

このうち私は2編のブックガイドを担当しました。

真島一郎「やはり何か「そういうことをしたいのです(赤瀬川原平『東京ミキサー計画-ハイレッド・センター直接行動の記録』)」pp.50-51

真島一郎「生きよ、消えよ、そしてまた占拠せよ(ハキム・ベイ『T.A.Z.-一時的自律ゾーン 存在論的アナーキー 詩的テロリズム[第2版]』)」pp.114-115

全体にかなり濃密で見事な構成のブックガイドになっています。関心のある方はぜひお手にとってみてください。表紙のニャンコもかわいいです。

2021年10月7日木曜日

田宮虎彦「花」


 「田んぼや畑には食糧農作物以外はどうしても植えちゃあならねえというだ、植えれば懲役に行かねばならねえというだ、だけどもよ、田や畑でねえところなら、花を植えても食糧農作物をへらすことにはならねえはずだとかあちゃんは思うだよ」

「かあちゃん、かあちゃんは九郎畑に花を植えるってか、いくらかあちゃんでも九郎畑は無理だ、あすこは畑じゃねえだ、やせた谷だ、それによ、谷は谷でも朝日谷は風っ早(かぜっぱや)だ、何が何でも、花が出来るわけがねえだ」

「おめえに話があるといったのは、ほかでもねえだ、九郎畑に何も出来ねえってことは、かあちゃんもよく知ってるだ、かあちゃんはそれを知ってて、おめえにたのむだ、かあちゃんには花をつくることをやめることは、どうしても出来ねえだ[…]かあちゃんは君浦の畑という畑を花でうずめてしまいてえと思って来ただ、かあちゃんは花なしには生きていけねえだ、なるほど花は口で食べることは出来ねえだが、口で食べるものだけが食べものじゃねえだ[…]」         (田宮虎彦 1963「花」)

2021年9月12日日曜日

講演会&ワークショップ報告集『沖縄とポスト植民地主義文学』

 

今年1月に開催された講演会&ワークショップの報告集が、このほど冊子形式およびウェブ上で刊行されました。

東京外国語大学国際日本研究センター 編『沖縄とポスト植民地主義文学-崎山多美と〈シマコトバ〉というバクダン』2021年8月31日発行.

当日参加させていただいた部分の記録は、次のとおりです。

真島一郎「まつろわぬ声/さえぎれぬ谺-アフリカとポストコロニアル文学」pp.77-95.

報告集全体は、下記サイトの末尾からダウンロードできます。 

報告集PDF

 

 




2021年9月2日木曜日

GREEN JAIL:緑の牢獄

 

 ドキュメンタリー映画『緑の牢獄』

東京再上映決定!

10月1日(金)

  ~10月15日(金) 

於:CINEMA Chupki TABATA (UDcast対応)



2021年8月1日日曜日

暗黒に連なるうす暗い尻尾に…

 […]芸術という称号、それは暗黒にはとどかない[…]光はみずからの先端、みずからの前衛を恐怖する矛盾を犯し、そこに権力が露呈する[…]「光」の中で決定された「芸術」という称号のとどかないところ[…]にはただ露骨な好奇心だけがひたすら露呈され、そのとき踏みつけている暗黒の尻尾だけが、その唯一の引力となっている。その片足に全神経が集中し、振動している私たちの体にとって、あるいは私たちの予感を探知しようとしている光の先端にとっては、芸術という称号の助けは無意味であり、それを自由と名付けることも不必要とさえ思われる[…]うすれゆく光の先端全域の振動はやがて発覚し、明確な光がそこを照らし、その残された記録から推定して光がはじめてその振動を自由と名付けるだろう。しかしそこに明るく照らし出された尻尾は、すでに切断された尻尾の断片であり、そこで名付けられた「自由」とは、すでに固型し終えた領収書にすぎない[…]私たちの好奇心は、光という明確な意識、そこを統制する光源を離れたそのうす暗いゾーンではじめてあらわになるのだ。その暗黒に連なるうす暗い尻尾にそっていくとき、それはちょうどペスト菌によって占領された静かな街のように、そこではすべてが自由であり、すべてが危険である[…]自由であり危険であるもの、それが光にとっては無秩序であるとすれば、その街に無秩序をもたらすものは、あたかも私たち人類に対立するペスト菌の秩序のようでもあるが、それはむしろ平等というべきであり、ペスト菌の自由が、私たちをその街の自由の中に引きずりこむ。ペスト菌ではなく人類であり、光の先端でありながら光である私たちが、「光」にとって「ただ一つの暗黒」の中に「暗黒の無数」を探知しようとするとき必要なのは、いわばこの「ペスト菌の自由」である。私たちにかかわってくる相手の自由を発見することである。このようにして己れの内部の権力から墜落しながら発覚する自由、光源を遠く離れながらひたされていく自由、それが当然要求し、うす暗がりからふたたび強烈なわれわれの光をあびてあらわれるものに「オブジェ」がある。            (赤瀬川原平、1967「言葉の暗がりの中で」より)

2021年7月12日月曜日

『萌える人類学者』書評

 

春先にこのブログでお伝えした新刊エッセイ集『萌える人類学者』(馬場淳 他編、東京外国語大学出版会)の書評が、このほど『図書新聞』に掲載されました。

皆川勤「「萌え」と人類学者はどう結びつくのか」『図書新聞』2021年7月10日号.

本書に私の寄せた拙いテクストへ新たな感応の命を灯してくださった評者の皆川勤さんに、心より感謝申しあげます。

2021年6月21日月曜日

le ciel du solstice d'été

 













En rêvant son reflet vague dans l'eau du Lac Nemi


2021年5月5日水曜日

群蝶論

 物を考える時間がつかのまとれた連休中、俊英の手になるみごとな論考に出遭いました。今学期金曜3限の博士演習に参加されている黒沢さんの作品です。

黒沢祐人 2021「群蝶化するゴゼイ/ゴゼイ化する群蝶-目取真俊「群蝶の木」における〈群生〉する身体と変形」『社会文学』53:160-173. 

 「[…]身体部位の接触を矢継ぎ早につなぎ合わせることで、あくまでも人称的な帰属を不明確なままにしながらゴゼイの身体感覚を探る語り[…]ゴゼイの預かり知らぬところで、その〈声〉は義明の生に浸透し[…]「群蝶の木」では、このような、いわば出会いのない出会いとでもいうべき特異な交流が、物語の展開において重要な鍵になっていた[…]同じ場にいながらも決して重なりあうことのない内面世界を生きるもの同士の実践が輻輳化する事態を語る物語[…]ゴゼイの自己実践と義明の行動は、相互理解可能な同一の地平に生じるものではない。だが、明らかに互いの生に浸透している。「出会いのない出会い」とは、このように互いの実践が、あくまでも別々の実践として、しかし時にはその実践を可能とする前提を与え合うというような、共通の目的をもたない偶然の協働を可能にする交錯の謂であった」(pp.164-168)

2021年3月25日木曜日

卒業式 2020

 

これ以上ないほどの桜咲く晴れ着日和となった昨日3月24日、府中キャンパスにて今年度の卒業式を恙なく迎えることができました。

卒論発表会でも打ち上げができなかったゼミ卒業生のみなさん、門出の祝宴に代わるすてきなサプライズを用意してくださってありがとうございました。一夜明けてもかぐわしく咲きほこるこのギフトを、次の学年、その次の学年へのギフトとして確かに返していけるよう、私もできるかぎり努力します。

ご卒業ほんとうにおめでとうございます。   みなさんが社会のそれぞれの持ち場でめざましくご活躍されることを心から願っています。

2021年3月18日木曜日

萌える人類学者

通称プロジェクトKの人類学者グループが、このほどエッセイ集を刊行しました。

馬場淳・平田晶子・森昭子・小西公大 編    『萌える人類学者』   東京外国語大学出版会、2021年3月18日発行。

「バンクーバー島の先住民サーニッチ、タール砂漠の楽士団、ケニア中央高地イゲンベの名前、コートディヴォワールの歌姫の声音、海面上昇の危機に直面する南太平洋ツバル、西オーストラリアの日本食、インドネシアの機織り、パプアニューギニア・ファス族の夢……。フィールドで心を奪われた人類学者たちが、 対象への強烈な愛着や情熱に導かれ、「萌えの光景」をつむぎだす」(表紙袖の案内文より)

私も短いエッセイを寄稿させていただきました。

真島一郎                    「Never Let Me Go - フィールドノートの余白から」 pp.332-345。

Kurita-san, never let me go please.

2021年3月17日水曜日

世界のおすもうさん

 世界のおすもうさん、堂々刊行。

敬愛する和田静香さんと金井真紀さんが、一昨年から昨年にかけて「web岩波 たねをまく」に連載してきた名文の数々が、このたび一書として刊行されました。

和田静香 金井真紀   『世界のおすもうさん』岩波書店、2021年3月17日発行。

「世界から集まった少年力士たち、女相撲の大横綱、高校の女子相撲部、スーパーマーケットを切り盛りする力士たち、沖縄角力の猛者、韓国シルムのプロ選手、モンゴル相撲の闘う人類学者… …。相撲を愛するスー女(相撲女子)2人が出会ったのは、生まれた場所も性別も年齢もバラバラ、だけど一途に相撲を愛し、相撲と生きる「おすもうさん」たちだった!」(表紙袖の案内文より)

和田さんが「終わりに」のしょっぱなにギュッと凝縮して放ったつぎの一文に、お二人の/との繋がりをあらためてズドーンと感じました。

 「金井真紀さんと池袋で沖縄に連帯するデモを歩いて相撲の本をつくろうと盛り上がってから、私たちは何度か相撲会議を開いた。早朝、国技館前で当日券販売に並ぶ人の列に取材して、その帰り道。「今から会わない?」と誘い、まだ寝起きの金井さんが飛んできてくれたり。杉並区の高円寺から阿佐ヶ谷まで、当時の安倍首相に対する抗議デモを相撲ファンの知人と私が歩いて、帰りに阿佐ヶ谷の立ち飲み屋でワイワイするうちに[…]」

金井さん、はるばる府中キャンパスまで新刊を届けに来てくださって、ありがとうございます。世界のこの難場(なんば)を乗りきったところで、またゴールデン街にぜひお誘いください。

2021年1月30日土曜日

卒論発表会2020

 

ゼミ4年生による「卒論発表会2020」を、昨日開催しました。

今年度卒論演習の研究成果は、下記10篇です。自分に納得のいくレベルを目指して、最後まで努力を積み重ねてくれた卒業予定生のひとりひとりに、心からの感謝と敬意を。

 「ヘイトデモをとめた街」のプレヒストリー
                  -青丘社桜本保育園から川崎市ふれあい館の識字学級までを中心に」

「撲滅すべき悪」と「必要悪」のはざまで-ボリビアで生きるために働く児童の考察

「嘘と真をめぐる生の揺動-ヴァーツラフ・ハヴェルの政治哲学から」

「マオリ土地権利抗争の507日-1977年、バスティオン・ポイントから」

「ユーザーフレンドリーな記念碑-虐殺の記憶をデザインする」

「生きるために描く-アドルフ・ヴェルフリの25,000頁の空想とリアル」

「枠の不在と情動のゆくえー『ミッドサマー』をめぐる一考察」

「村上春樹の月が照らす「良い」物語」

「サイコパスの諸相ー彼らは異常者なのか」

「モロッコにおける教育言語としてのフランス語-ムハンマド六世とベルモクタールの教育政策を中心に」

2021年1月26日火曜日

ゼミ論発表会2020

 

ゼミ3年生による「ゼミ論発表会2020」を、昨日開催しました。

今年度は、下記19篇の力作が生まれました。「自分は今、世界のどこに立っているのか」という根本的な問いを拓くために、論述対象とそれを論述する自己とのアクチュアルな繋がりを、多様な側面から掘り下げた作品ばかりです。「ばらばらでひとつ」から生まれる個性豊かなチームワークが、ディスカッション1年分の積み重ねを経て、実を結びました。

「ボツワナのCKGR問題-開発をめぐる人類学的思考の可能性」

「承認と尊敬・敬意の欠如-子どもの貧困をルース・リスター『貧困とはなにか』から考える」

「キャラヴァンに繋がる生-マヌーシュの身体と穢れ・性・弔い」

「「普遍的な科学」の瓦解-B.ウォーフの言語観が教えてくれること」

 「遠きにありて想ふこと-ブラジル移民佐藤念腹の俳句」

「「問題のある」母親たち-メキシコにおける母性の分断とオポルトゥニダデス」

「「人民相互の情誼」の行方-恤救規則の成立と養育院」

「語ることについて語るときにわれわれの語ること-『存在の彼方へ』における《le dire》概念」

「非日常への揺らぎ-関東大震災後の自警団と朝鮮人虐殺」

「《貴婦人と一角獣》を読む-《我が唯一の望み》の深層から見えるもの」

「見えない労働者-バングラデシュにおける33万人の家事使用人の少女たち」

「宝町は誰のものか-『鉄コン筋クリート』が描く都市計画」

「「伝統」を見つめ直す国王-モロッコにおける新家族法の制定から」

「インド都市部の雇用問題-人材開発システムをハリヤナ州から考える」

「近代的ミュージアム再考-ルーヴル美術館設立を手がかりに」

「「日本の捕鯨文化」という表象の問題」

「記号処理と「現実」形成-「現実」を見ているのは誰なのか」

「病院に来ない人々の死と生-インドネシア西ジャワ州タヌー村におけるプスケスマスの事例から」

「血と骨の還る場所-在日朝鮮人一世、二世と民族教育」

2021年1月22日金曜日

沖縄とポスト植民地主義文学               - 崎山多美と〈シマコトバ〉というバクダン


 来週の1月26~29日に開催予定の左記講演会&ワークショップでお話をさせていただく予定です。

*一般公開(25日まで参加申込を受付)

1月28日(木)10:10-11:40

真島一郎「まつろわぬ声/さえぎれぬ谺-アフリカとポストコロニアル文学」