2022年9月15日木曜日

殷銅

川端康成没後五〇年。老境に到った審美の欲動に今また触れようと、川端そのひととは別種の参照点、いちど速読みしていた藤枝を再読。


[…]私は四人目の入場者として国立博物館「中華人民共和国古代青銅器展」の門をくぐった[…]私の手帖には翌日の予定も書いてある。近代美術館でタマヨ個展を見たのち帝劇九階の出光美術館別館に展示されている神戸白鶴美術館所蔵の中国古代青銅器をひとまわりし、湯島天神下の骨董屋未央堂に寄って預けものの軸を受けとる次手に品物を冷やかして陽のあるうちにゆっくり帰宅するというのである[…]白鶴所蔵の中国銅器は数年まえに本田秋五の案内で本館を訪ねたときその美しさ立派さと数量に驚嘆した記憶があった。今度の出開帳でその大部分に再会し、博物館のそれと併せ見られるという期待で私の胸はうずいていたのであった。[…]まったくそれは期待にたがわぬ素晴らしい観物であった。[…]十年ばかりまえの秋、中国銅器に取憑かれはじめていた本田秋五の案内で京都住友家の泉屋博古館、藤井有隣館などの素晴らしい蒐集を見て頭が痛くなったことがあった。[…]「やっぱり殷銅にはかなわんなあ。春秋戦国となると何だか迫力が落ちてすこし物足りなくなるなあ」と云いあった。[…]しかし[…]これまでの経験をまじえた予感を頭の隅において春秋、戦国、秦、漢と、できるだけゆっくりゆっくり歩をすすめて行った私は、奇妙にもこれまで要らぬ技巧として心中に排斥していた文様の多様化と柔軟化とに意外な美しさを発見して驚ろいたのであった。[…]「いつもこのとおりだ-まだ」と私は思った。頭いっぱいに何かがつめこまれ、それ以上の努力はなんの効果も生まず、鈍磨した感覚は何かを受けつけるだけの反応力を失い、したがって自分にとってここにこんなふうにして未練がましく止まっていることは何の足しにもならないのであった。それは長い経験からハッキリしていた。「しかしおれはやっぱり駄目だろう」 私は嘆息するように思った。そして再びただ疲労を増すだけのために、人垣を縫うようにして最初の殷銅の部屋めがけて逆行して行った。いろいろのことがある。もう一度たしかめねばならぬものがある。見落しがあるかも知れない。二度と来られるかどうかはわからない。[…] 

藤枝静男「在らざるにあらず」

2022年9月3日土曜日

kishimojin

 

Juste au moment de quitter le deuil,

on se trouve encore en face de fleurs

si éphémères.