2018年3月1日木曜日

ファム・コン・ティエン 『深淵の沈黙』



    もう嘆くな、めそめそ泣くな、葬儀の歌はもうやめろ! 伝記も物語も図書館も博物館も捨てちまえ!
    死人は死人に喰わせておけ。で、俺たちは!  生者は、深淵のふちで踊ろうじゃないか、最後の絶
    息の舞踏を! 精一杯の舞踏を! (ヘンリー・ミラー 『北回帰線』)

 これは著者自身[=ティエン]の実存の叫びそのものだ。この常軌を逸しているとしか言いようのない叫びが、
一九六〇年代後半、泥沼化していくベトナム戦争の時代の狂気の真っ只中で叫ばれていたことに、私はあらためて戦慄を覚える。                                           (本書「訳者解説」より)
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 「俺はハイデッガーやヘラクレイトスを血と涙で読むというのに、教授どもときたら近視眼でしか読めない」

 「どうして私はまだ語らなければならなかったのだろうか、突然、沈黙が出現したというのに!」

 「言語は再び創造されなければならない、人間は再び創造されなければならない。創造は、暴動の最後の意味  だ。創造を恐れることは命懸けになろうとしないことだ。創造は尊敬ではない」

                                           (ティエンの言葉、同「訳者解説」より)
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 比類もなく壮絶な叫びを内蔵させたベトナム語の思想書が、いま初めて言語の壁をこえ、しかも半世紀の歳月をこえて、日本の読書界にとどけられました。畏友、野平宗弘さんによる、事件としての訳業

 ファム・コン・ティエン 『深淵の沈黙』 野平宗弘 訳、東京外国語大学出版会、2018年2月28日発行。

 1967年、ベトナム戦争の渦中にある旧南ベトナムの首都サイゴンで弱冠26歳のティエンが発表したこの著作は、ほかならぬベトナム戦争に牙をむく思想闘争の具現でした。

「20世紀の科学は、 西洋形而上学の成就である。西洋形而上学は、現在のベトナムでの過酷な戦争において成就した」

「到来するベトナム思想は、その超越的性格に向かわなければならない。簡略して言えば、〈越性〉(l'essence du Viet Nam)へと向かわなければならないのである」

ならば、いかにして。
ティエンのいうところ、それは西洋的思惟における重大な欠損としてハイデッガーが(不十分なしかたであれ)告発した、存在論的差異の忘却、すなわち「存在者」との差異において弁別されるべき「存在」そのものの忘却を乗り越え、深淵のうちに存在を、ティエンの表現によれば〈性〉を成就させることである。したがって、ひとまずは、「存在者」の圏域を成り立たせてきたいっさいの言語的意味、表象を破壊したうえで、問う主体と世界とがただ剥き出しの「ある」としてのみ残った状態に到る必要がある。しかし、そうした絶対的沈黙への到達をもってすべてが終わるわけではない。ひとたび無となり沈黙となった世界から、ここでふたたび叫びが出来し、それとともに「深淵の沈黙が突如、〈性〉と〈越〉とを響かせ」るのだから。

この場合の叫びとは、夜のただなかで、善悪の彼岸に響きわたる哄笑ともいえるでしょうか。あるいは、なぜニーチェは沈黙しなければならなかったのか。深淵を覗くとき、深淵もまた…。

来月以降の新年度には、『ヒロシマの人々の物語』、『実存主義から経済の優位性へ』、『至高性』の精読に歩を進めていく予定の、月曜5限のバタイユ演習に、絶好のサブテクストが登場したようにも、個人的には感じています。

「[…]訳者の私がささやかながらただ願うのは、この時代、この世界の「夜」に耐え忍びながら、どこまでも深い己の「闇」を見つめる者たち、そんな「孤独な鳥」(サン・フアン・デ・ラ・クルス)たちのもとに本書が届けばいいということだけである」                                             (同「訳者解説」より)