2019年3月21日木曜日

落合雄彦 編 『アフリカ安全保障論入門』

アフリカ政治学を専門にする落合雄彦さんが、
このほど新たな編著を刊行されました。

落合雄彦 編 『アフリカ安全保障論入門』晃洋書房、                     2019年3月10日発行。

「[…] 21世紀に入ってからのアフリカは、「紛争の大陸」から「紛争なき大陸」への脱皮を単なる夢物語としてではなく明確なビジョンとして語りうる段階にまで至っている[…] 「紛争なき大陸」の実現を目指す21世紀のアフリカは、「紛争の大陸」というレッテルを事実上甘受していた20世紀後半のアフリカとは、すでに質的にかなり異なりつつある[…] しかし、「紛争なき大陸」を目指す21世紀のアフリカが、果たして「平和の大陸」になりつつあるのかといえば、必ずしもそうではない。というのも、たしかにアフリカにおける武力紛争の発生状況は21世紀に入ってやや鎮静化傾向を示してはいるが、かといって銃声が完全に鳴り止んだわけではなく、その一方で同地域は今日、新たな安全保障上の脅威や課題にも晒されるようになっているからである[…] 21世紀のアフリカは、武力紛争だけではなく、テロ、海賊、密輸、感染症といった多種多様な安全保障課題に直面している。その意味では、今日のアフリカは、単なる「紛争の大陸」ではもはやない一方、「平和の大陸」でもない、いわば「紛争だけではない大陸」とでも形容すべきような不安定な過渡期的状況に陥ってしまっているのかもしれない。そして、そうした困難な状況下でいま求められているのは、「紛争の大陸」時代のアフリカ紛争研究の成果を十分に踏まえつつもそれを超えた、「紛争だけではない大陸」時代のアフリカに対応した新たな安全保障研究を構築することであろう。本書は、その嚆矢となることを意図して編まれた一書である」(編者「まえがき」より)

本書は「テキストブック的な書物」であることがうたわれている通り、所収論考のうちには、軍隊、警察、民間軍事・警備会社などの「装置」をめぐる各論をはじめ、崩壊国家、国境、海賊、ボコ・ハラム、シャバーブといった「国家」「集団」関連のキーワード、またアメリカ、フランス、中国、韓国とアフリカ、あるいは国連、国際刑事裁判所とアフリカとの関係史や、アフリカ連合、地域経済共同体、人間の安全保障、食料安全保障、食料主権など、いずれも「紛争だけではない大陸」のセキュリティの現在(いま)に真向かううえでは欠かせない概念/用語や歴史、実情の論述から構成されています。その意味ではまさに「入門」書として、必携の一書といえそうです。オススメです。

2019年3月15日金曜日

『福音と世界』 2019年4月号

新教出版社の月刊誌『福音と世界』の4月号に、
「特集 = 人類学とキリスト教」と題して、示唆に富んだ考察と詩文が集められています。

『福音と世界 4月号 特集 = 人類学とキリスト教』
(通算第74巻第4号)、2019年4月1日発行、新教出版社。

「暴力的な家父長制のもとにおかれた女性の苦難は、聖書の女性たちの経験とも重なるのではないか。そのような女性の痛みの経験に焦点を当てるフェミニスト的視座の必要性は、フェミニスト人類学とフェミニスト神学に共通するものである」
(川橋範子「「フェミニスト」として人類学すること」より)

川橋さんをはじめ、たいへん豪華な執筆陣のなか、沖縄という土地の過去と現在を思考の起点とする二つの論考、とりわけ巻頭の一文で投じられた、「イエスはガリラヤの地を歩きながら人の話を聴いて回ったフィールドワーカーではないか」という佐藤壮広さんの問いに、強い印象をいだきました。(佐藤壮広「フィールドワーカーとしてのイエス-預言者的精神の現在」)

神学と人類学の関連については、ポストコロニアル批評とは異なる視角からも考える余地があるように、私は思ってきました。旧教と新教の別をひとまずこえていえば、たとえばイグナチオ・デ・ロヨラが、「イエスの生涯の出来事の現場に身を置く」ための、想像の五官による感受を 『霊操』で指示するさい、ロヨラのいう「イエスの現場」とは、おそらく空間性を欠いた何事かとしての「現場」であるらしいこと、そんなことをあれこれ考えていたせいかもしれません。ソーシャル・ワークと人類学のあいだには、近代ヨーロッパの形成過程で、ほとんど境界を画しがたい起源の分有点が見いだせるかぎり、聞きとりの対象となった人々を「統治」に内在化させる身ぶりから、声をひたすら「聴く」というただそのことだけに懸けながらソーシャル・ワークが乗り越えてきた壁を、はたして人類学はいま、新たな破局のはじまりにさいして、おなじように乗り越えられるのか。統治と操行のはざまに、はたして「身を置くべきイエスの現場」は現れるのか。

フェミニスト神学の問いと沖縄からの問いに続けてふれながら、あらためてまた遠く近くたしかに谺してきたのは、ことばでは到底(そして当然)指し示せないほど重い、 上間陽子さんのあのかけがえのない労作 『裸足で逃げる』から響いてくる、嗚咽を噛み殺す小さな声の重なりだったように感じています。

2019年3月12日火曜日

『混沌の共和国』

美学芸術学/アフリカ近代美術史を専門領域とされる
柳沢史明さんが、フランス第三共和政/植民地史を斬新な視点から再考する共編著を、このほど発表されました。

柳沢史明・吉澤英樹・江島泰子(編)
『混沌の共和国-「文明化の使命」の時代における渡世のディスクール』ナカニシヤ出版、2019年2月28日発行。

[…]共和国理念の及ばぬ「植民地」での共和国とカトリックとの協力体制は[…]ライシテ関連法案推進者の代表でもあったフェリーの努力の賜物であったという事実は、まさに植民地事業において政教が分離せずに、また完全な合致というわけでもない、付かず離れずの関係にあったことを示している。「野蛮」な非西洋を「文明化」するという口実のもとに進められる植民地化こそ、世俗化する西洋社会における政教の相克を一時的に中和しうる同時代的関心事にほかならず[…]たとえ共和派が宣教師の営為を「文明化」として認識しようとしなかったとしても、後者の側は、一種の「渡世」の言説として自らの営為をフランスによる植民地の「文明化」という文脈へと接合させていたと考えることは可能であろう。

[…]宣教師と同様に、近代国家形成にあたっての政教分離や植民地主義の高まり、共和国的理念や人種主義的観念の形成など、さまざまな政治的・思想的な諸要素の布置のなかで、自らの存在価値と第三共和政期の諸潮流との「整合性」を探り、巧みに自らの利害と立場を確保する人びとの思想や作品に注目するならば、彼らの思慮深くかつ抜け目ない「渡世」の言説がみえてくるだろうし、それを通じてこの時代の思想、文化、表現を再考することができるのではないだろうか。こうした関心のもと、本書は企画された」   (いずれも本書所収の、柳沢史明「「文明化の使命」の時代とその文化-序にかえて」より)

論集は三部構成で、ライシテや人種理論、ユダヤ系フランス人にかんする論考を集めた第一部「第三共和政成立期における宗教と人種」のあとには、第二部「植民地」文学」と「ルポルタージュ」」、第三部「宣教師たちのみた植民地アフリカ」がつづくなど、きわめて多彩な観点からなる論集です。