2019年9月1日日曜日

『世界』 特集- アフリカ 人々が変える大陸

先日、金井真紀さんの巻頭イラストについて紹介した『世界』9月号を手に取りました。 同号には、特集のひとつとして、今日のアフリカをめぐる価値ある論考5篇が掲載されています。うち1篇は、ニャムンジョのウブントゥ論。

フランシス・B・ニャムンジョ(梅屋潔 訳)
「アフリカらしさとは何か-ウブントゥという思想」『世界』924:184-196、2019年9月1日発行。

「ウブントゥイズムは、他人の人間性を損なうようなことをする人は、たとえ一時的に完全だと思われたとしても、実は完全ではないのだということを私たちに教えています。人間がそれ自体では不完全だという認識をもたらすのです。では、このウブントゥイズムの考え方がみんなに成功をもたらし、社会的に異質なものを包みこむことができるのはいつでしょうか[…]関係にもとづいて何かを求められたときに、どこまで真剣に考えるべきであり、どこからであれば無視してもいいのでしょうか[…]私がここで考えてみたいのは、アフリカの移民と残された家族や友人との間の緊張関係なのです」。

問いを掲げたうえでニャムンジョが語りだすのは、トーゴ出身のサッカーのスター・プレーヤー、エマニュエル・アデバヨールの家族関係にまつわる、強烈な物語です。西アフリカのとくに都市部で生活したことがあれば、経済的に多少とも成功した隣人の暮らしを不断にさいなむ家族の関係性が、悪夢のように規模を極大化させたこの事例。

「この話は完全にアデバヨールの視点、つまり狩る側ではなく狩られる側の視点から語られていますから、彼ほどの人が、なぜ家族の略奪のなすがままになっているのか、疑問に思う人もいるかもしれません。苦労して稼いだものは自分のものだと、個人の権利を主張することはできたはずです。彼がこの一歩を踏み出さなかったのはなぜでしょうか」

「アフリカの移民の多くは、どのように、そして誰に送金するかについて、非常な注意を払っています[…]アデバヨールの例でお話ししたように彼らの多くは、一種のオポチュニズムの犠牲になってきました[…]しかしそれでも、残された家族関係や友人関係を理由に現れるオポチュニズムを、特定個人のわがままとか非倫理的行動として責め立てることには実りがありません[…]オポチュニズムの暴走を契機として[…]自分も狩られる側になりうるし逆もそうであるという狩りの本質に立ち返り、狩るものと狩られる者とを、ふたたび結びつけなければいけないのです[…]アフリカ人の移住というものは、ウブントゥ精神のもとに、変化し続ける世界のなかで本当の人間になろうとする経験の不可欠な一部である、ということ[…]」

論文に先立って訳者の梅屋さんが添えている解説文も、非常に参考になります。異なるだれかと共に生きていくという終わりのない物語のなかで、たとえ私たちが今日の世界性をめぐって「どうしたらいいのか」についての処方箋が欲しくなっても、手軽な、短絡的な処方箋など、どこにも用意されていないことを、梅屋さんはニャムンジョの人間論と繋げています。

どうしたらいいのか、の問いをすぐさま起動させずにいない「理性」の時間は、たとえば『ツナミの小形而上学』から目を背けてきた、特殊な時間論であったこと。名指しがたい何ごとかの発現を「オポチュニズム」の一言で全否定したりはしない、あらたな操行の時間を想像すること。