2019年12月28日土曜日

「闘い」の方法をたどる感性

年明けの1月11日(土)、京都・立命館大学にて下記講演をさせていただくことになりました。

【渡辺公三先生のご業績をふり返る会】
   立命館大学先端総合学術研究科主催

日時:2020年1月11日(土)13:00-
場所:立命館大学衣笠キャンパス創思館
   4階403・404
参加無料

真島一郎
「闘い」の方法をたどる感性-
渡辺公三訳『人種と歴史』刊行に寄せて

プログラム詳細
 http://www.arsvi.com/2020/20200110.htm

2019年12月8日日曜日

サンティアゴ・アルバレス特集上映

CINE URGENTE !
CINE URGENTE !
CINE URGENTE !


生誕100年を記念して、今週4日間にわたり「サンティアゴ・アルバレス特集上映」会が
都内アテネ・フランセで開催されます。

【サンティアゴ・アルバレス Santiago Álvarez】
 1919年、ハバナに生まれる。アナキストの父親をもち、植字工見習いやタイピストの仕事をしながら夜間学校で学ぶ。39年にアメリカ合衆国へ留学し、人種差別などの現実に直面する。42年に帰国し… (以下略歴・上映作品の詳細はポスターをクリック!)

最終日14日には、シンポジウムも開かれます。
  19:30~ シンポジウム
   岡田秀則 国立映画アーカイブ主任研究員
   新谷和輝 キューバ映画研究者
   司会: 濱冶佳 山形国際ドキュメンタリー映画祭

新谷さん、今回もまた、どえらい企画をぶちあげてくれてサンクス。Merci cent mille fois !!



2019年12月6日金曜日

『初期社会主義研究』第28号

毎度読むのを楽しみにしている『初期社会主義研究』の最新号(第28号)を、このほど落手。

前号(第27号: 特集 ロシア革命100年)以来、
約2年ぶりの最新号刊行であるだけに、
一書が厚く、読みごたえありの予感。

「特集 〈マイノリティ〉と〈差別〉」 
 論考8本掲載。

2019年12月4日水曜日

佐原敦子 ヴァイオリンリサイタル


       
ヴァイオリニストの佐原敦子さん(藝大フィルハーモニア管弦楽団第1バイオリン奏者)から直接ご案内をいただいて、初冬の晩、ひとりトッパンホールへ。

すべての曲目に魅了されましたが、なかでも1921年の無伴奏曲、「レントヘン:無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジー」の渾身の演奏には、時と場所の感覚を失うほど、魂をもっていかれました。
またとなく素敵な夕べを届けてくださいまして、
ありがとうございました。
 


佐原さんとは、3,4年まえの少人数の集いで初めてお会いしました。そのときやはり知りあった(当時の私の企画で助けてくださった)NHK 番組制作チーフ・ディレクターの上野智男さんが手がけられた、奥深くも静まりかえるドキュメンタリー番組を、ちょうどこの秋に再放送で鑑賞し、音楽と生のかかわりについてしばらく考えていたところでした。

「漂泊のピアニスト
  アファナシエフ もののあはれを弾く」
   (NHKBSプレミアム、2008年初放送、112分)

今月14日も再々放送があるようです。一流の表現者としてのお二方を、演奏・映像ともに、とても眩しく感じています。

2019年11月16日土曜日

臨在


開花期間の歴代最長記録を更新した、自宅晩秋の入谷朝顔。
ひらききらずに潰える花をのぞけば、おそらく今朝のこの赤が、
最後の一輪となるでしょう。4か月ものあいだ、よくがんばってくれました。

2019年10月19日土曜日

これは君の闘争だ


明後日の月曜に、TUFS Cinemaで下記作品が上映されます。

「これは君の闘争だ Your Turn」(監督:エリザ・カパイ、ブラジル、2019、93m)

日時:2019年10月21日(月) 18:30開映 (18:00開場)
場所:東京外国語大学アゴラ・グローバル プロメテウス・ホール)
入場無料、先着順(定員501人)、申込不要
上映後トーク 舛方周一郎氏(神田外語大専任講師、国際関係論、ラテンアメリカ政治)

山形国際ドキュメンタリー映画祭2019でも今月上映されている、注目の問題作。
ぜひご来場ください。

あらすじ:
公共交通機関の値上げ反対デモや、公立高校再編案に反対する学校占拠など、活発な政治運動を繰り広げるブラジルの学生たち。その記録映像に、当事者である3人の若者たちがナレーションを重ねていく。若者たちは、その歌うような軽快な語りとともに、学校を、そして街頭を次々と占拠し、政治家たちに自らの主張を認めさせていく。しかし彼らのこうした試みにもかかわらず警察の対応はより暴力的なものになっていき、ブラジルは極右政権の誕生へと向かっていく。

詳しくはコチラ→ https://tufscinema.jp/191021-2/

2019年10月13日日曜日

un souhait


des feuilles du jacaranda avec la pleine lune de la mi-octobre, et une image floue d'un masque dan à l'arrière-plan

2019年9月1日日曜日

『世界』 特集- アフリカ 人々が変える大陸

先日、金井真紀さんの巻頭イラストについて紹介した『世界』9月号を手に取りました。 同号には、特集のひとつとして、今日のアフリカをめぐる価値ある論考5篇が掲載されています。うち1篇は、ニャムンジョのウブントゥ論。

フランシス・B・ニャムンジョ(梅屋潔 訳)
「アフリカらしさとは何か-ウブントゥという思想」『世界』924:184-196、2019年9月1日発行。

「ウブントゥイズムは、他人の人間性を損なうようなことをする人は、たとえ一時的に完全だと思われたとしても、実は完全ではないのだということを私たちに教えています。人間がそれ自体では不完全だという認識をもたらすのです。では、このウブントゥイズムの考え方がみんなに成功をもたらし、社会的に異質なものを包みこむことができるのはいつでしょうか[…]関係にもとづいて何かを求められたときに、どこまで真剣に考えるべきであり、どこからであれば無視してもいいのでしょうか[…]私がここで考えてみたいのは、アフリカの移民と残された家族や友人との間の緊張関係なのです」。

問いを掲げたうえでニャムンジョが語りだすのは、トーゴ出身のサッカーのスター・プレーヤー、エマニュエル・アデバヨールの家族関係にまつわる、強烈な物語です。西アフリカのとくに都市部で生活したことがあれば、経済的に多少とも成功した隣人の暮らしを不断にさいなむ家族の関係性が、悪夢のように規模を極大化させたこの事例。

「この話は完全にアデバヨールの視点、つまり狩る側ではなく狩られる側の視点から語られていますから、彼ほどの人が、なぜ家族の略奪のなすがままになっているのか、疑問に思う人もいるかもしれません。苦労して稼いだものは自分のものだと、個人の権利を主張することはできたはずです。彼がこの一歩を踏み出さなかったのはなぜでしょうか」

「アフリカの移民の多くは、どのように、そして誰に送金するかについて、非常な注意を払っています[…]アデバヨールの例でお話ししたように彼らの多くは、一種のオポチュニズムの犠牲になってきました[…]しかしそれでも、残された家族関係や友人関係を理由に現れるオポチュニズムを、特定個人のわがままとか非倫理的行動として責め立てることには実りがありません[…]オポチュニズムの暴走を契機として[…]自分も狩られる側になりうるし逆もそうであるという狩りの本質に立ち返り、狩るものと狩られる者とを、ふたたび結びつけなければいけないのです[…]アフリカ人の移住というものは、ウブントゥ精神のもとに、変化し続ける世界のなかで本当の人間になろうとする経験の不可欠な一部である、ということ[…]」

論文に先立って訳者の梅屋さんが添えている解説文も、非常に参考になります。異なるだれかと共に生きていくという終わりのない物語のなかで、たとえ私たちが今日の世界性をめぐって「どうしたらいいのか」についての処方箋が欲しくなっても、手軽な、短絡的な処方箋など、どこにも用意されていないことを、梅屋さんはニャムンジョの人間論と繋げています。

どうしたらいいのか、の問いをすぐさま起動させずにいない「理性」の時間は、たとえば『ツナミの小形而上学』から目を背けてきた、特殊な時間論であったこと。名指しがたい何ごとかの発現を「オポチュニズム」の一言で全否定したりはしない、あらたな操行の時間を想像すること。

2019年8月14日水曜日

NATURE & 手9

デザインの道をひた走る、現役ゼミ生よっしー。今夏の習作。
 Instagram→ https://www.instagram.com/yopsymi
 twitter→ https://twitter.com/yopsymi

 
NATURE @ Takahashi Yoshimi 2019

手9 @ Takahashi Yoshimi 2019

2019年8月12日月曜日

きらまーみーゆしが、まちげーみーらん。


岩波書店の『世界』にコラムを連載中の金井真紀さんから、原稿の陣中見舞に代えて(お心遣い恐縮です)、上の写真を添えたおたよりをいただきました。

きらまーみーゆしが、まちげーみーらん。
慶良間は見えるが、まつ毛は見えない。  『世界』2019年9月号「ことわざの惑星」

現物はまだ手元にありませんが、9月号の第二特集はアフリカで、
ニャムンジョのウブントゥ論が、梅屋潔訳で掲載されている模様。すばらしい、読みたい。

ちょうどいまEテレでカイヨワ『戦争論』の連続読解をされている西谷修さんや土佐弘之さんたちと、10年ほど前、渡嘉敷島の集団自決の跡地まで勇気をだして香を手向けに訪れた日の深夜、東シナ海の黒い海原に高々とのぼった、巨大な月輪を思い出しました。あのとき自分の睫毛は見えていたのか。今なら慶良間を通じて見えているのか。

https://www.facebook.com/NHKonline/posts/2924690027557643?comment_id=2924773520882627&comment_tracking=%7B%22tn%22%3A%22R%22%7D

2019年8月7日水曜日

ゼミ合宿2019

un ruisseau de montagne à Karuizawa (湯川渓流)2019.08.04
lilium auratum 2019.08.03

今年は昨年とほぼ同じ時期、
8月2日から5日の3泊4日で、
3年ゼミ生を中心に栗田先生もまじえた夏合宿@軽井沢を実施しました。

今回の課題テクストは、
松村圭一郎 他編
 『文化人類学の思考法』
  (世界思想社、2019年)。

 私のゼミは、ゼミ生各自がまったく異なるテーマ関心を持ち寄ってできた集合体で、これまで文化人類学の授業を履修してこなかったゼミ生も多くいます。そのため、人類学で前提となる考えかたをまず私ができるだけ分かりやすく概説しながら、全体のディスカッションへという形を今回は採りました。
 鋭い質問やコメントが次々と飛び出したり、またゼミ生が、栗田先生を料理長とした毎食の準備と後片付けや、晩の飲み会や、栗田ゼミ伝来の「大花火大会」、小遠足の露天温泉などで急速にうちとけていく様子は、いつ参加してもじつに嬉しく、また頼もしく感じる現象です。

酷暑の東京から遠く離れた涼夏のひとときを、みんなですっかり満喫してきました。
私にとっては、これからいよいよ原稿執筆に専心する短期決戦の始まり。精進しなければ。

2019年7月28日日曜日

暑中見舞



暑中お見舞い申しあげます。
例年おなじ店でもとめる入谷の朝顔も、生きものゆえ、歳々、鉢にあたりはずれが出てきます。
ことしは団十郎が艶やかで、また青の爽やかな鉢でした。むかしの和服の青。

2019年7月26日金曜日

『ケベック詩選集』

フランス語圏文学研究の立花英裕さんを共編訳者とするケベック詩、邦訳初のアンソロジーがこのほど刊行されました。

立花英裕・真田桂子 編訳
後藤美和子・佐々木奈緒 訳
『ケベック詩選集-北アメリカのフランス語詩』
          彩流社、2019年6月24日発行。

「ケベックの詩に自然への賛美や恐れはあるが、単純な花鳥諷詠の文学ではない。18世紀中葉からイギリスの植民地支配下に服するようになり、1839年にイギリス政府に提出された有名なダラム報告書で「歴史も文学ももたぬ民族」と侮蔑されたフランス系カナダ人は、たえず未来への漠とした不安にとらわれてきたし、自分たちにどのような意味づけをしたらよいのかという、根源的な問いを発してきた。ケベックの詩に死者への拘り、記憶への執着が目立つのは、そうした植民地状況と密着している」

「ケベック詩には内向的・内省的な性格があるが、愛国主義的な系譜もある。むしろこちらの方が、ケベック詩の原点だと言わなくてはならない。この愛国的な潮流は総じてカトリック色が強いが、同時に、喪失を嘆く詩でもある。ケベックの愛国主義は、挫折を味わった人々の土地への愛着に根ざしている[…]クレマズィやフレシェットの流れを汲む愛国的な詩が脱宗教化し、それがネリガンの創始した叙情詩と融合したとき抵抗の詩が立ち上がり、「静かな革命」期の高揚へと向かっていく[…]「ケベック」を発明したのは詩だと言っても過言ではない」
                        (いずれも立花氏による「訳者あとがき」より)

本書は、ローラン・マイヨとピエール・ヌヴーが編んだケベック詩の代表的なアンソロジー『ケベック詩-その起源から現代まで』(2007年版)を底本としながら、そこには収められていない詩人の作品も新たに加え、総勢36人の詩作を訳出した労作です。今夏、味読をおすすめします。

2019年7月6日土曜日

香港、どうなってんの?



今週月曜に、学内で下記の企画が実施されました。
緊急開催「香港、どうなってんの?  Urgent talk: What's going on in Hong Kong?」

日時:2019年7月1日(月) 17:50-19:30
場所:東京外国語大学227教室
予約不要・出入自由・入場無料


逃亡犯条例をめぐり揺れる香港。
毎日ニュースで耳にするけど、一体何がどうなっているの?
香港人留学生と香港研究者がわかりやすく説明します! (フライヤー案内文より)
-------------------------------

研究講義棟内の各階エレベーター前には、常時さまざまな研究会、シンポジウム、特別講義などのフライヤーが色とりどり掲示されていますが、そのなかで逆にひときわ目立っていた、モノトーンの一枚。「緊急開催」の文字にまず引きつけられたあと、タイトルにも案内文にも、学生からの強いメッセージが込められているのでは、と直感しました。どれだけ忙しくても出て学ぼう。すぐにそう決めました。ひとつ心配だったのは、会場が227教室という、200人以上を収容できる大きめの教室であること。しかも、週初め平日の夜で、来週から学期末の試験期間に入るというこのタイミング。関係の学生たちが頑張って準備をしたのに、もし会場がガラガラになっていたら。つらい…。

当日の227に時間ぎりぎりで駆けつけ、恐る恐る教室の扉をそっと押してみました。5限も終わった18時前で、みんな部活にバイトにと忙しい日々を送っているはずなのに、なんと教室は学生たちでほぼ満杯。ムンムンです。そして開会。同僚の教員・倉田明子さんが、最初に香港の過去と現在を簡潔的確に説明したあとの壇上は、司会進行役の大学院生1人と、香港出身で現在外大に籍をおいている学部留学生3人だけ。倉田さんは、もうパワポのスクリーン画面を調整したり、タブレット録画の状態をチェックしたりと黒子状態にカンペキ回って、学生によるメッセージ伝達のヘルプ役に徹しています。

香港から留学してきた学友3人が、ひとりひとり現在の香港の社会情勢について、じつに穏やかな口調で、しかし胸の内に秘めた力強いメッセージを会場に届けていきます。香港市民による抗議デモの現状を伝える、数分間の生々しい報道映像がスクリーンに映し出されると、会場の雰囲気はさらに一変したように感じられました。壇上のプレゼンテーションがひととおり終わると、質疑をもとめる司会のひと声に、教室のあちこちからサッと手が挙がります。質問やコメントを述べる学生の所属は、東アジア専攻だけではありませんでした。こちらではポーランド語科の学生が、あちらではアラビア語科の学生が、留学生のメッセージをきちんと受けとめ、自分なりの考えを丁寧に示すことに専念している。私のゼミに所属しているフィリピンや中央アジア専攻の学生の顔もみえます。企画終了時間の19時30分になるまで、途中退室する学生は10人もいませんでした。教室内のやりとりを聴いていて何より感銘をうけたのは、壇上の留学生も、オーディエンスとして駆けつけた学生たちも、全員がおとなの発言者としてふるまい、この明かしえぬ共同体にしずかに集い、そしてしずかに解散していったことです。ここはやはり、都内でも稀有な空間へと開かれた大学で、自分はこんなにもスゴイ学生たちと日々場を同じくしているのだと、今回もまた、掛け値なしに実感したしだいです。

この集会の開催日時として選ばれた「7月1日」は、香港の歴史にとり、いうまでもなく特別な意味をもつ日付。「立法院占拠」の香港発速報にふれたのは、この日帰宅したばかりの21時頃のことでした。

聴き手に分かりやすいメッセージとなることを配慮して、
この日壇上からみごとな日本語で思いを伝えてくれた香港からの留学生のみなさん。
あなたたちのメッセージは、聴衆の若い学友たちにしっかりと届きました。
通い合いの瞬間は、それぞれの日々の果実です。
自分たちの手でみごとな企画を立ててくれて、ほんとうにありがとう。

2019年6月20日木曜日

ギンズブルグ『政治的イコノグラフィーについて』

カルロ・ギンズブルグの新たな訳書が刊行されました。

カルロ・ギンズブルグ
 『政治的イコノグラフィーについて』
  上村忠男 訳、みすず書房、2019年6月11日発行。

原書タイトルを直訳すれば『畏怖・崇敬・恐怖-政治的イコノグラフィーにかんする五つの試論』となる本書は、ギンズブルグが1999~2009年に発表した論考5篇を収め、2015年にミラノで刊行されました。

上村忠男氏の「訳者あとがき」によれば、このうち明示的には第一論考と第四論考にしか現れていないものの、図像の発揮する政治的効果をテーマとした本書の考察には、ヴァールブルク由来の概念「パトスフォルメル/情念定型」が、共通の着想源として見出せるといいます。

そのことは、著者本人による「序言」でも明示されています。生前のヴァールブルクが歳月を通じ、ほとんど強迫観念のように立ち戻っていたこの概念の最大の特質とは両義性、すなわち芸術作品で表現された情動的身振りにおける意味内容の反転(かれのいう「エネルギー論的反転」)であった。それは若き日のヴァールブルクが出会った、チャールズ・ダーウィンの著作『人間と動物における感動の表現』中の指摘-「発作的な笑いと涙のような両極端の感動状態のあいだに認められる隣接関係」、あるいはダーウィンがそのさい引用するジョシュア・レノルズの発見-「相対立する両極端の情動が、たいした違いもなく、同一の動作で表現されている」事態と、響きあう着想だったのだと。

たとえば、ホッブズの省察にみとめられる「恐怖」と「崇敬」の両義的合流。そのことを探る歴史家の視線が、『リヴァイアサン』の扉頁を飾るあの有名な図像のうちに、「病気の瘴気から保護してくれると信じられていた嘴型の仮面で顔を覆った、ペストの防疫にあたる2人の医師の、高さ3ミリメートルの肖像」(本書70-71頁)を発見していたことには、さすがに驚かされました。
 
ヴァールブルクの思考に、パトスフォルメルへの欲動/からの強迫がたえず伏在していたとすれば、以前にもこのブログでふれた『蛇儀礼』のうち、その際にはふれなかった別の一節が想起されてきます。

「民俗学をやりながら、おもしろおかしいものに笑ってしまう人は、間違っています。そういう人には、まさにその瞬間に、悲劇的要素を理解する可能性が閉ざされてしまうのです」
                              (三島憲一訳、岩波文庫版 37頁)

2019年6月5日水曜日

友常勉『夢と爆弾』

思想史研究の友常勉さんが、このほど新著を発表されました。

友常勉『夢と爆弾-サバルタンの表現と闘争』
           航思社、2019年5月31日発行。

本書は、著者が2012年以降に発表した論考群に、書き下ろしの考察2篇を加えた論集です。

「二〇一二年に河出書房新社から『戦後部落解放運動史 永続革命の行方』を出版したとき、その終章で、私は以下のようなことを書いた。資本制社会を相対化するために、さまざまなマイノリティと底辺労働者との出会いをこちらからつくる必要があると。そのとき念頭にあったのが寄せ場の労働運動であり、アンダークラスの闘争であった。本書に収録したテキストのテーマはそれぞれ異なっているが、そのなかで私が追求してきたのは、上記のことに尽きる」                    (本書あとがきより)

いずれも凝縮された密度からなる論考群の集成に、おもわず息を呑むような感覚をおぼえます。各論に言及のある、船本州治、桐山襲、出口なおといった固有名については、かねて立ち止まって熟考してみなければと思ってきた主題であり、また、大道寺についてはとくに収監後の辺見庸との交流を、高橋和巳については上原康隆が生前アパートに所持していた数少ない書物のひとつに『孤立無援の思想』があったことを、以前からどう捉えるべきか思いあぐねてきたところがあります。それだけに、本書からは多くを学ぶことができるように予感します。昨年6月にコメンテーターとして参加させていただいた、井上康・崎山政毅『マルクスと商品語』合評会(本ブログ掲載)におけるマルクス価値批判論のさらなる再考の契機も、本書から得られればと考えています。

2019年5月21日火曜日

友松夕香『サバンナのジェンダー』

若き人類学者、友松夕香さんが、ガーナ北部での長期のフィールド経験にもとづく大作の民族誌をこのほど発表されました。

友松夕香『サバンナのジェンダー:西アフリカ農村経済の民族誌』明石書店、2019年3月31日発行。

「[…]女性たちの苦難は、女性の周縁化、女性の従属、資源配分の男女格差、貧困の女性化など、男性との対比で概念化されてきた。開発政策の議論の場でも[…]「途上国」の「女性」は支援を受け続けるカテゴリーとしての地位をすっかり確立してきた[…とくにアフリカ各地の農村部の]女性たちは耕作技術の指導から、資金の提供、そして、プロジェクトを通じて土地の再配分を受ける対象となってきた[…]数多くの研究が表面的な事実を積み、既存の定説を繰り返し再確認しても、そこからは暮らしの「内側」の男性と女性の生計関係は見えてこない。また、実態の複雑さを強調する少なからぬ研究も、その具体的な中身を伝えることなしには、政策の議論の場に熟議を生みだしてはこなかった」

「過去一世紀、アフリカ各地の農村部をとりまく環境は大きく変化してきた。男性と女性の日々の暮らしにおける関係性も、この変化にともない大きく変容してきた。しかし、そのあり方は、開発政策の議論で想定されてきたように、近代化を通じて女性が生産者としての地位を失い、 周縁化したとして一様に結論づけることはできない。また女性たちの暮らしは決して楽ではなくても、その問題の所在は男女の権力関係に着目する視点だけで理解できるような単純なものではない。そして、今日の「国際社会」で揺るぎない価値として主張されている「ジェンダー平等」を促進するための女性への支援は、そこで想定されているような女性たちの福祉(ウェルビーイング)の向上につながるとはかぎらない」            (いずれも本書序論より)

問題の所在に長く向きあってきた表現者に特有の、注意深さと力強さを併せもつ重要な指摘を試みたのち、著者は三部構成で、ガーナ北部の農村経済の現在(いま)を細密に説き明かしていきます。第一部は、アフリカの農村部の女性を支援する前提となってきた「女性の周縁化」論を再考する目的にあてられ、つづく第二部と第三部では、土地や樹木、労働力など、農村部での日々の生活に必要な資源の配分様態と作物分配の実践の場をふまえて、資源配分における男女間の差異を女性の従属に関連づけたり、女性や世帯全体の福利の低下に結びつけてきた議論が問い直されていきます。

西アフリカ民族誌学の21世紀に、重要なモノグラフが登場しました。

2019年5月14日火曜日

太田至・曽我亨 編『遊牧の思想』

アフリカの牧畜社会をフィールドとする人類学者が、新たに重要な論集を刊行しました。

太田至・曽我亨 編『遊牧の思想-人類学がみる激動のアフリカ』昭和堂、2019年3月30日発行。

「アフリカの遊牧民に魅せられた人類学者によるアンソロジー。彼らに惹かれる最大の理由は、その「ブレない生き方」。現在をさまざまな困難に直面する私たちにとって、同じように激動の時代を生きる遊牧民の思想は、どんな意味をもつのか。読者とともに考えたい」(本書表紙裏リード文)

若手研究者と並んで寄稿した本書の主要執筆陣は、これはという圧巻の顔ぶれ。今日のアフリカに生じた激動を目の前の現実として着実に捉えようとする基本姿勢もさることながら、状況に正対する牧畜民の「ブレなさ」こそ、本書から学びうる重要な思想の核となるはずです。たとえばそれは、伊谷純一郎や本書共編者・太田さんの論考により80年代から注目されてきたベッギングの社会性が、今の私たちになおも問いつづける思想として。

「[…]牧畜民の社会の文化、価値観は、基本的に農耕民である日本人のものとは、ある意味では対極にあり、非常にわかりにくい。彼らの自己肯定的で確信に満ちた生き方の秘密はどこにあるのだろうか[…]牧畜民は目の前の相手としっかり向き合う人たちである。相手の言うことに耳を傾け、自分にできること、できないことをはっきりと告げる。もちろん、「物乞い」をもちこまれた相手が、いつも要望に応えられるわけではない。重要なことは、牧畜民が困っている相手に、しっかり向き合い、解決できるならば要望に応えようとすることだ」        (本書序章「遊牧の思想とは何か」より)

2019年5月8日水曜日

浜田明範 編『再分配のエスノグラフィ』

浜田明範さんをはじめとする俊英の文化人類学者が、このほど再分配を再考する論集を発表されました。

浜田明範 編『再分配のエスノグラフィ
       -経済・統治・社会的なもの』
         悠書館、2019年4月22日発行。 

「[…]経済人類学において長らく忘れられていた主題である再分配を再考するにあたって、私たちは、人類学で行われてきた議論を踏襲しながらも、対象としての再分配を拡張して捉えようと試みた。古典的に議論されてきたより小規模に行われている再分配的な実践だけではなく、所得再分配政策における富の再分配とその影響についても射程に収めようと考えたのである。この目的を達成するために、私たちは、まずは、「再分配とは集めて配ることである」というミニマルな定義を採用することにした[…]」

「[…]多様な現象を視野に入れながら、改めて再分配と集団の関係について人類学的に議論することは、「社会的なもの」に関する研究にも貢献することになりうる。[…]本書は再分配を人類学の主題として再生させるとともに、人類学の知見をもって「社会的なもの」についての議論に貢献することを目的としている」(いずれも浜田「序論」より)

本書のもとになった共同研究の中間成果が、2015年の日本文化人類学会研究大会で分科会発表として企画されたとき、私はコメンテーターとして声がけをいただきました。しかし、明日が分科会という日の夕刻、大阪の大会会場にいた私に伯父の訃報が届き、東京へ戻ることに。しかも、飛び乗った上りの新幹線が、地震の影響で途中停車&停電。午前1時にようやく帰宅し、だいたいこんな内容のコメントを、と考えていたメモをもとに、夜明けまでかけて会場代読用の完全稿を仕上げた思い出があります。鋭い問題意識をもつ共同研究にこのようなかたちであれ接することができたのを、本書の刊行にあたり、あらためて光栄に感じています。

2019年5月4日土曜日

世界のおすもうさん、始まる


 岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」で、「世界のおすもうさん」の連載がきのうから始まりました。著者は、音楽/相撲コラムニストで「スー女」として知られる和田静香さん(文)と、『世界はフムフムで満ちている』など「多様性をおもしろがること」をモットーとしている文筆家/イラストレーターの金井真紀さん(文・絵)です。

 おふたりが、セネガルやコートディヴォワールの相撲のことについて話がしたいと、私の研究室までわざわざ遊びに来てくださったのは、去年の秋のことでした。あのときは楽しかったあ!

 今回は、和田さんの「序文」と、第1回「白鵬杯のおすもうさんたち」の同時配信です。
パワフルでテンポ抜群でじつに温かい内容で、初回からいきなり攻めに出ています。 オススメです。

 序文 https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1884
 第1回「白鵬杯のおすもうさんたち」https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1899

「世界のおすもうさん」
和田靜香 文, 金井真紀 文・絵
web岩波(たねをまく)
大相撲だけが相撲じゃない。私たちの日々の暮らしの傍ら、そして世界のあちらこちらにも、土地に根ざしたさまざまな相撲があり、切磋琢磨する〈おすもうさん〉たちがいます。
この連載では、相撲をこよなく愛する和田靜香さん、金井真紀さんのコンビが、そんなおすもうさんを訪ねて日本と世界を巡ります。
土俵の向こうに人生が見えるイラスト紀行です。

2019年4月27日土曜日

荒井芳廣『ブラジル北東部港湾都市レシフェの地方文化の創造と再創造』

今年2月にブーレ・マルクスの訳書を手がけられた文化人類学者の荒井芳廣さんが、レシフェを舞台とする新著を発表されました。

荒井芳廣
『ブラジル北東部港湾都市レシフェの地方文化の創造 と再創造』丸善プラネット、2019年3月10日発行。

社会学者ジルベルト・フレイレ(1900-87)と文学者アリアーノ・スアッス-ナ(1927-)。

本書では、これら二人の著作家が生を送ったレシフェの都市文化について、「コミュニケーションの民衆的回路」と呼ぶべき小冊子の世界に光をあてながら多彩な論述が進んでいきます。

ただし、本書の描きだそうとする都市文化の射程には、それ以上の厚みが具わるものといえるでしょう。

ブラジルの社会研究に「フォーク・コミュニケーション」の概念が登場する以前の、20世紀戦間期に確立していくサンパウロ社会学派から、戦後1970年代の音楽グループ「キンテート・ヴィオラード」の表現世界を経て、90年代レシフェに登場するポピュラー音楽「マンゲビート」にいたるまで、研究者による思考の彫琢と都市文化の熱気との混淆ぶりが、めくるめく史実の繋がりによって説き明かされます。

「[…]作者の分身と思われるヂニスは、これら2人を前にして、A・スアッスーナがG・フレイレの「混血のイデオロギー」の後継者であることを示す思想を表明している。ヂニスにとってブラジルの歴史をつくってきたのは、ヨーロッパ人でも先住民でも黒人でもなく、混血の子孫たちである。彼が書きたかったのはこれらの人々、「栗色の貴族の民」と呼ぶべき人々を讃える神話である。この神話こそ、ヂニスを語り手として今書かれようとしている『王国の礎』そのものなのである[…]」

2019年4月21日日曜日

の、かほり

昨冬、師走のはじめに、色のない日常を和らげてくれればと購ったシクラメン。こんもり赤をつけて出荷されていたみごとな鉢は、それからクリスマスも、年越しも、余寒の時候も、次々と艶やかに咲きつづけてくれました。好みの場所から日がな動かずじっとしている家住みのネコのように、この家の風通しと日当たりをかなり気に入ってくれたのか。フフーン。
「往時」のおもかげこそなくなりましたが、四月下旬にさしかかったいまも、元気な蕾がぽつぽつ葉のあいだから現れてくる。休眠のタイミングをどうしたものか。冬の開花をめざしたチョー難関の夏越えを、ことしはクリアできるのか。嗚呼、たのみましたぞシクラメンちゃん…

「この非人称の実存は、純粋な動詞である以上、厳密に言えば名づけることはできない。動詞とは、名詞がものの名前であるように、行為の名前であるだけではない。動詞の機能は、名づけることにあるのではなく、言語を産出することにある。つまりそれは、定位され、定立性そのもののうちにある〈実存者〉たちを、その定位において、またその定立性そのものにおいて震撼させる詩の萌芽をもたらすものなのだ」 (Emmanuel Lévinas)

2019年4月16日火曜日

飛内悠子『未来に帰る-内戦後の「スーダン」を生きるクク人の移住と故郷』

人類学者の飛内悠子さんが、スーダンでの長きにわたるフィールドワークの成果を発表されました。

飛内悠子『未来に帰る-内戦後の「スーダン」を生きるクク人の移住と故郷』
         風響社、2019年2月20日発行。

スーダンでのフィールドワークを2007年以来継続してきた飛内さんは、南北スーダンの分離・独立を決める2011年住民投票の時もまた、フィールドにたたずみ、人びとの「動き」を静かに見つめ、やがて結実することになる本書の問いを引き出します。

「ハルツーム在住の南部人の多くは南部に行くことを選んだ。そうして辿りついた南部で彼らが見、経験したものは何であったのか。[…本書では…]ハルツームから南スーダンへと帰った、もしくは向かった人びとの状況を詳細に描き出すことを通して、人間にとっての帰郷という行動の意味を問いたい」

書き手自身の忽せにしえない希求も込めたかのような本書のタイトル、「未来に帰る」という形容の卓抜さに感銘をうけました。同一の表題を冠した本書最終章「未来に帰る」では、この民族誌にとり重要な登場人物のひとり、アベルの動向に託して、著者は記します。

「ウガンダ、ジュバ、ハルツームと移り住んできた彼はジュバに土地を持っているが、カジョケジに住むことに決めていた。[…]村にいるときは筆者が借りているトゥクルが彼の寝場所であったが、それはもともと彼の父のものであり、彼自身の家は村にはなかった。村の住人になること、家族とともに住む終の棲家を建てることは彼にとっての夢であった。それがついに成されようとしていた。[…]2015年のクリスマスには彼の家が出来る。それは間違いなく彼にとっての帰る場所、故郷である。未来に故郷は創られる。彼らは未来に帰るのである[…]人の移動は、土地の意味も変えていく。ジュバでも、かたちを変えた「ハルツーム」は生き続ける。ハルツームに生きた南スーダン人たちは、「ハルツーム」とともに未来に帰っていったと言えるのかもしれない」

未来に帰る南スーダン人にとり、このときもうひとつのポイントとなるのは、スーダンという土地におけるキリスト教の位置づけでしょう。フィールドでみずから見つめたものをこの点にひきつけて書き継ぐときも、生身(なまみ)の人間ひとりひとりの生を端正にとらえる筆致に揺れは生じません。

「ボニがキリスト教徒にとって厳しい状況が続くハルツームで暮らし続けることを決意した背景には、おそらく彼女にとってジュバがハルツームより親しみやすい場所ではなかったこと、そして彼女自身がハルツームで暮らしていくことが出来ると踏んだことがある。[…]救いの場、夢をかなえる場としてのハルツームと異郷としてのハルツームとの間に彼女はいる。このようなハルツームのあり方は、すでに南スーダンへと帰還し、ハルツームでの生活の経験を背負って生きる人びとが抱くハルツームへの思いと重なり合う。だが道は分かたれた。南スーダンで、もしくはハルツームの外で生きることを選んだ人びとと、ハルツームに生きることを選んだ人びと[…]」

問題のスーダン住民投票のゆくえを、ちょうど私はダカールで見つめていました。セネガルの国映放送から流れるスーダンの映像に、栗本英世さんの姿をみとめた瞬間を、今でも克明に憶えています。未来に帰ること。2011年初頭の時点で、それはクク人だけの夢でもなかった筈でした。

2019年4月10日水曜日

感受へとさしむける読み

東京外国語大学出版会の広報誌『ピエリア』最新号
(2019年春号)が、このほど刊行されました。

今年は、 「神話の海へ」と題した特集が組まれています。

わたしは、以下の小文を寄せました。

真島一郎 「感受へとさしむける読み」 pp. 4-5.
テクストリンク) 

今年のエッセイの道しるべとして久しぶりに何度も聴いたのは、戸渡陽太のこの一曲。出遭いは、AA研から学部大学院に移ってまもない2015年5月、新美で催されていた『マグリット展』に行ったあと、六本木をぶらついて出くわした、かれのミニ・ライブでのことでした。華やいだ街には似つかわしくない面持ちの若者がこの曲の出だしを叫びはじめた途端、雑踏が撃たれたように静まりかえった光景は、いまも克明に憶えています。MVの背景を覆い尽くすような、黄昏にさしかかる時分の薄紫の空。その薄紫こそ、当時のわたしが己れの感受をさしむけるよう誘われた神話の薄明、存在の影だったのかもしれません。

今年の『ピエリア』には、昨年度末で退任した
出版会編集長としての短文も、号末に載せていただきました。
真島一郎 「映像と書物」 p. 79.






2019年4月8日月曜日

『ダヴィッド・ジョップ詩集』

カリブ海文学研究の中村隆之さんが、このほどアフリカの詩人ダヴィッド・ジョップの詩作を編訳のうえ刊行されました。

『ダヴィッド・ジョップ詩集』中村隆之 編 訳、
           夜光社、2019年3月19日発行。

1927年にセネガル出身の父とカメルーン出身の母のもとボルドーに生まれ、セネガル独立直後の1960年に飛行機事故であまりに早く旅立ってしまったかれ、DD。

本書で中村さんは、DDが生前唯一発表した詩集『杵つき』をふくむ22篇の詩、散文として残されたテクスト4篇の訳出とあわせ、解題文にあたる「ダヴィッド・ジョップ小伝」により、表現者としてのDDが生きた1950年代西アフリカの政治状況を丁寧に紹介していきます。歴史の脈絡と、時を超えた詩の力のいずれをも、日本語の読み手に届けていくことの大切さにあらためて思いが到ります。

100頁に満たない小冊子の持ち味を活かした美しい装幀にも、味読と愛蔵への傾斜がいざなわれているように感じます。詩集『杵つき』から着想された表紙の絵は、発行人手ずからの版画とのこと。本書が第二弾にあたる夜光社「民衆詩叢書」には、既刊書としてアナキスト崔真碩の第一詩集『サラム ひと』があることを巻末の広告頁で知りました。この詩集も手に取ってみたい。

アナキストといえば、本書の「ダヴィッド・ジョップ小伝」で中村さんがふれている「消滅する媒介者」の姿もまた、かつてハキム・ベイがイメージした、TAZに明滅する表現者たちの姿ではなかったか、そんな連想が浮かびました。テクストに記される一人称たとえば「ぼく」とは、そのように記されることでテクストからたちどころに消失していく何事かすなわち事件であるとすれば。

「砂は血でできていた/そしてぼくは視ていた いつもと変わらないようなその日を」
                            (本書所収「浮浪者ニグロ」より)

2019年4月5日金曜日

春学期 2019

collection privée (i. majima)
新年度春学期で、わたしは下記演習を担当します。所属の学部長をつとめることになったため、昨年度までの「火3」も「水6」も、わたしの担当講義はなくなりますが、そのぶん、3年ゼミ・4年ゼミと、大学院の演習には、全力投球で臨むつもりです。ゼミ生、院生のみなさん、よろしくお願いします。



金2 院M演習
   近代西アフリカをめぐる歴史人類学

金3 院D演習
   バタイユ読解Ⅳ
   『無神学大全』その1 『内的体験』

金4 学部3年ゼミ

金5 卒論ゼミ


2019年4月3日水曜日

長沢栄治『近代エジプト家族の社会史』

中東地域研究の長沢栄治さんが、新たな大著を刊行されました。

長沢栄治『近代エジプト家族の社会史』
     東京大学出版会、2019年2月15日発行。

長沢さんが過去30年間にわたり発表してきた論考群からなる、家族を主題とした近現代エジプト社会史研究の集大成といえる一書。

ちょうど20年前に私も寄稿した論集『植民地経験』(人文書院)で長沢さんの描かれていた歴史の風景が、これほど広大な思考の射程を帯びたものであったことに、まず驚嘆しました。

歴史の陰翳をたたえた当時の論考「少年が見たエジプト一九一九年革命」は、本書第10章に収められています。載録にあたって章の冒頭に添えられた解説を通じ、「地域研究としての家族研究」をめぐる著者の思考においてこの論考のもつ位置づけが、今回書き下ろしの第2章「近代エジプトの家族概念をめぐる一考察」で明示されていることに、読み手は気づかされます。そして当の第2章に読みを転ずると、家族の主題が他の様々な論考のうちでさらなる展開と変奏をとげていることを、読み手は知らされる。そのようにして、おそらくは本書所収のどの論考から読み始めたとしても、長沢さんの思考の強靱な道程へと読者は自然に合流し、問題の深い所在に導かれていく構造を、この大作は秘めているように感じられました。長沢さんの家族研究における大きな里程標として、社会学者サイイド・オウェイス(1913-88)の自伝『私が背負った歴史』(1985)があったとすれば、幸運にも私は、先の論集を介してその核心部分、カイロの下町に渡る路地の光景に、早くからふれえていたことになるのでしょう。

 「[…]本書の刊行の前にオウェイス博士所縁の地を訪れようと考えた。幼少期の彼が過ごした路地(ハーラ)である。[…]二〇一八年三月、シタデル前の広場からサイイダ・アーイシャ・モスクへと続く道から、野菜売りの屋台の間を抜けてバクリー通りへと入った。自伝によれば、一九一九年革命当時に、この表通り(シャーリウ)をイギリス兵が示威行進をしたというが、自動車一台が通れるような道幅しかない。[…] 路地を後にして、オウェイス博士が通った小学校も探してみた。[…]ここでも通りがかりの教員にオウェイス博士のことを訊いてみたが知らず、またこの学校に民族主義の英雄、ムスタファー・カーメルが通ったことも知らなかった。[…]」  (本書第10章「解説」より)

2019年3月21日木曜日

落合雄彦 編 『アフリカ安全保障論入門』

アフリカ政治学を専門にする落合雄彦さんが、
このほど新たな編著を刊行されました。

落合雄彦 編 『アフリカ安全保障論入門』晃洋書房、                     2019年3月10日発行。

「[…] 21世紀に入ってからのアフリカは、「紛争の大陸」から「紛争なき大陸」への脱皮を単なる夢物語としてではなく明確なビジョンとして語りうる段階にまで至っている[…] 「紛争なき大陸」の実現を目指す21世紀のアフリカは、「紛争の大陸」というレッテルを事実上甘受していた20世紀後半のアフリカとは、すでに質的にかなり異なりつつある[…] しかし、「紛争なき大陸」を目指す21世紀のアフリカが、果たして「平和の大陸」になりつつあるのかといえば、必ずしもそうではない。というのも、たしかにアフリカにおける武力紛争の発生状況は21世紀に入ってやや鎮静化傾向を示してはいるが、かといって銃声が完全に鳴り止んだわけではなく、その一方で同地域は今日、新たな安全保障上の脅威や課題にも晒されるようになっているからである[…] 21世紀のアフリカは、武力紛争だけではなく、テロ、海賊、密輸、感染症といった多種多様な安全保障課題に直面している。その意味では、今日のアフリカは、単なる「紛争の大陸」ではもはやない一方、「平和の大陸」でもない、いわば「紛争だけではない大陸」とでも形容すべきような不安定な過渡期的状況に陥ってしまっているのかもしれない。そして、そうした困難な状況下でいま求められているのは、「紛争の大陸」時代のアフリカ紛争研究の成果を十分に踏まえつつもそれを超えた、「紛争だけではない大陸」時代のアフリカに対応した新たな安全保障研究を構築することであろう。本書は、その嚆矢となることを意図して編まれた一書である」(編者「まえがき」より)

本書は「テキストブック的な書物」であることがうたわれている通り、所収論考のうちには、軍隊、警察、民間軍事・警備会社などの「装置」をめぐる各論をはじめ、崩壊国家、国境、海賊、ボコ・ハラム、シャバーブといった「国家」「集団」関連のキーワード、またアメリカ、フランス、中国、韓国とアフリカ、あるいは国連、国際刑事裁判所とアフリカとの関係史や、アフリカ連合、地域経済共同体、人間の安全保障、食料安全保障、食料主権など、いずれも「紛争だけではない大陸」のセキュリティの現在(いま)に真向かううえでは欠かせない概念/用語や歴史、実情の論述から構成されています。その意味ではまさに「入門」書として、必携の一書といえそうです。オススメです。

2019年3月15日金曜日

『福音と世界』 2019年4月号

新教出版社の月刊誌『福音と世界』の4月号に、
「特集 = 人類学とキリスト教」と題して、示唆に富んだ考察と詩文が集められています。

『福音と世界 4月号 特集 = 人類学とキリスト教』
(通算第74巻第4号)、2019年4月1日発行、新教出版社。

「暴力的な家父長制のもとにおかれた女性の苦難は、聖書の女性たちの経験とも重なるのではないか。そのような女性の痛みの経験に焦点を当てるフェミニスト的視座の必要性は、フェミニスト人類学とフェミニスト神学に共通するものである」
(川橋範子「「フェミニスト」として人類学すること」より)

川橋さんをはじめ、たいへん豪華な執筆陣のなか、沖縄という土地の過去と現在を思考の起点とする二つの論考、とりわけ巻頭の一文で投じられた、「イエスはガリラヤの地を歩きながら人の話を聴いて回ったフィールドワーカーではないか」という佐藤壮広さんの問いに、強い印象をいだきました。(佐藤壮広「フィールドワーカーとしてのイエス-預言者的精神の現在」)

神学と人類学の関連については、ポストコロニアル批評とは異なる視角からも考える余地があるように、私は思ってきました。旧教と新教の別をひとまずこえていえば、たとえばイグナチオ・デ・ロヨラが、「イエスの生涯の出来事の現場に身を置く」ための、想像の五官による感受を 『霊操』で指示するさい、ロヨラのいう「イエスの現場」とは、おそらく空間性を欠いた何事かとしての「現場」であるらしいこと、そんなことをあれこれ考えていたせいかもしれません。ソーシャル・ワークと人類学のあいだには、近代ヨーロッパの形成過程で、ほとんど境界を画しがたい起源の分有点が見いだせるかぎり、聞きとりの対象となった人々を「統治」に内在化させる身ぶりから、声をひたすら「聴く」というただそのことだけに懸けながらソーシャル・ワークが乗り越えてきた壁を、はたして人類学はいま、新たな破局のはじまりにさいして、おなじように乗り越えられるのか。統治と操行のはざまに、はたして「身を置くべきイエスの現場」は現れるのか。

フェミニスト神学の問いと沖縄からの問いに続けてふれながら、あらためてまた遠く近くたしかに谺してきたのは、ことばでは到底(そして当然)指し示せないほど重い、 上間陽子さんのあのかけがえのない労作 『裸足で逃げる』から響いてくる、嗚咽を噛み殺す小さな声の重なりだったように感じています。

2019年3月12日火曜日

『混沌の共和国』

美学芸術学/アフリカ近代美術史を専門領域とされる
柳沢史明さんが、フランス第三共和政/植民地史を斬新な視点から再考する共編著を、このほど発表されました。

柳沢史明・吉澤英樹・江島泰子(編)
『混沌の共和国-「文明化の使命」の時代における渡世のディスクール』ナカニシヤ出版、2019年2月28日発行。

[…]共和国理念の及ばぬ「植民地」での共和国とカトリックとの協力体制は[…]ライシテ関連法案推進者の代表でもあったフェリーの努力の賜物であったという事実は、まさに植民地事業において政教が分離せずに、また完全な合致というわけでもない、付かず離れずの関係にあったことを示している。「野蛮」な非西洋を「文明化」するという口実のもとに進められる植民地化こそ、世俗化する西洋社会における政教の相克を一時的に中和しうる同時代的関心事にほかならず[…]たとえ共和派が宣教師の営為を「文明化」として認識しようとしなかったとしても、後者の側は、一種の「渡世」の言説として自らの営為をフランスによる植民地の「文明化」という文脈へと接合させていたと考えることは可能であろう。

[…]宣教師と同様に、近代国家形成にあたっての政教分離や植民地主義の高まり、共和国的理念や人種主義的観念の形成など、さまざまな政治的・思想的な諸要素の布置のなかで、自らの存在価値と第三共和政期の諸潮流との「整合性」を探り、巧みに自らの利害と立場を確保する人びとの思想や作品に注目するならば、彼らの思慮深くかつ抜け目ない「渡世」の言説がみえてくるだろうし、それを通じてこの時代の思想、文化、表現を再考することができるのではないだろうか。こうした関心のもと、本書は企画された」   (いずれも本書所収の、柳沢史明「「文明化の使命」の時代とその文化-序にかえて」より)

論集は三部構成で、ライシテや人種理論、ユダヤ系フランス人にかんする論考を集めた第一部「第三共和政成立期における宗教と人種」のあとには、第二部「植民地」文学」と「ルポルタージュ」」、第三部「宣教師たちのみた植民地アフリカ」がつづくなど、きわめて多彩な観点からなる論集です。

2019年2月14日木曜日

『ホベルト・ブーレ・マルクスとの対話』

ラテンアメリカ各地をフィールドとしてこられた文化人類学者の荒井芳廣先生が、ブラジルの造景作家ブーレ・マルクスの作品世界に関する重要な訳書を刊行されました。

ジャック・レナール 監修
荒井芳廣 訳
 『ホベルト・ブーレ・マルクスの庭にて』
         春秋社、2018年12月31日発行。

「造園・造景芸術の巨匠ブーレ・マルクス(1909-1994)の思想と偉業をめぐる、論考とインタ ヴューの集成」(本書 帯より)

「[…]ブーレ・マルクスが作業場の準備にかける入念さが、いかなるものであっても、彼は必ずしも予めしっかりと決めたプランを先行させない。それを少しずつ抑制することにより、その場所に自ずと現れるように、生きている自然の植物群に直接に身を浸すのである[…]」(ジャック・レナール、本書所収)

「ブーレ・マルクスの創造体験のなかのラテンアメリカの自然の再現という側面が映し出されているのは、1930年代のブラジル北東部レシーフェでの[…]設計である。設計にあたってリオ・デ・ジャネイロ生まれの彼が発想のもととしたのは、植物学ではなく、この地域で頻発し歴史的伝統となっている千年王国的宗教運動、その最大のものである「カヌードスの乱」を題材としたエウクリデス・ダ・クーニャの『奥地』であった。それはクーニャの小説の舞台となった『奥地』の風景を形づくっている植物群を再現していた」  (本書「訳者解説」より)

荒井先生、端正な訳業の贈り物、ありがとうございました。

2019年1月26日土曜日

卒論発表会2018

真島ゼミ4年生の「卒論発表会2018」を、昨日開催しました。

今年度の卒業論文は、下記11篇です(執筆者名略、順不同)。

卒業への大きな関門を苦労のすえに突破したみなさん、
ほんとうにおめでとうございます。

「中国におけるインターネット金融の発達とその影響
        -中小企業の資金調達問題との関連で」

「タイにおける非熟練外国人労働者の子供に対する教育支援に 関する考察-各教育機関の取り組みに注目して」

「観光地バリの「正しい」神秘性
            -ツーリズムによる破壊と創造」

「マグダレン洗濯所試論」

「イタリア中小企業論再考」

「インドネシア国軍のレフォルマシ再考
             -アチェ紛争を事例に」

「チェルノブイリ法から学ぶ                     -ザクルィチに抗うために」

「1955年から1985年の甲府都市圏における
          近接性推移と農業の構造変化」

「 「あのひとが食べるところを見たい!」
    -韓国のモクバンにみる現代食文化の変容」

「イタリア・五つ星運動は「ポピュリズム政党」なのか
    -2009年から2018年総選挙までの政治動向をふまえて」

「南アフリカ共和国のLGBTQを取り巻く状況について
     -1980年代以降の同性愛者権利運動の歩みを通して」

2019年1月23日水曜日

ゼミ論発表会2018

昨日、ゼミ3年生の「ゼミ論発表会2018」を開催しました。

今年度3年ゼミの努力の結晶は、以下9編です
              (執筆者名略、順不同)。

「戦後経済成長期における玉野井芳郎の
             地域と経済を巡る論の省察」

「ボリビアにおける児童労働年齢引き下げのもつ社会的効果」

「「カルムイク人」の民族定義に関する考察
              -言語使用状況を手がかりに」

「 「教育勅語」の成立過程-明治初期の国体論を中心に」

「モロッコにおける教育言語としてのフランス語
   -ムハンマド六世とベルモクタールの教育政策を中心に」

「スーフィズムは復興したのか
   -ウズベキスタンにおけるズィクルの実践状況から」

「初等教育制度導入による子どもの牧畜生業 参加の変容-ケニア・マサイの事例から」

「イギリスにおけるWorking classの社会的立 場  -1970年からの20年間を通して」

「ワイタンギ条約を背景とした              マオリの土地抗争序説」

2019年1月20日日曜日

社会思想史事典


今月末に、丸善出版から 『社会思想史事典』が刊行されます。

社会思想史学会 編  『社会思想史事典』丸善出版、
                          2019年1月31日発行。

 この事典では、「人類学の思想」という項目の執筆を担当しました。

2019年1月10日木曜日

プライス・オブ・フリー上映会終了


有志学生の方々の大きなパワーに導かれて、TUFSCinema
『プライス・オブ・フリー』上映会を
無事終了しました。

年末年始があいだに入って
広報期間がたいへん短かったにもかかわらず、
当日は200人を超すご来場をいただきました。

報告記事については
コチラをご覧ください

2019年1月4日金曜日

謹賀新年 2019

phacochères à Tambacounda, Sénégal      @ I. Majima


明けましておめでとうございます。

みなさまにとって
今年がとても穏やかな一年と
なりますように。