2019年3月15日金曜日

『福音と世界』 2019年4月号

新教出版社の月刊誌『福音と世界』の4月号に、
「特集 = 人類学とキリスト教」と題して、示唆に富んだ考察と詩文が集められています。

『福音と世界 4月号 特集 = 人類学とキリスト教』
(通算第74巻第4号)、2019年4月1日発行、新教出版社。

「暴力的な家父長制のもとにおかれた女性の苦難は、聖書の女性たちの経験とも重なるのではないか。そのような女性の痛みの経験に焦点を当てるフェミニスト的視座の必要性は、フェミニスト人類学とフェミニスト神学に共通するものである」
(川橋範子「「フェミニスト」として人類学すること」より)

川橋さんをはじめ、たいへん豪華な執筆陣のなか、沖縄という土地の過去と現在を思考の起点とする二つの論考、とりわけ巻頭の一文で投じられた、「イエスはガリラヤの地を歩きながら人の話を聴いて回ったフィールドワーカーではないか」という佐藤壮広さんの問いに、強い印象をいだきました。(佐藤壮広「フィールドワーカーとしてのイエス-預言者的精神の現在」)

神学と人類学の関連については、ポストコロニアル批評とは異なる視角からも考える余地があるように、私は思ってきました。旧教と新教の別をひとまずこえていえば、たとえばイグナチオ・デ・ロヨラが、「イエスの生涯の出来事の現場に身を置く」ための、想像の五官による感受を 『霊操』で指示するさい、ロヨラのいう「イエスの現場」とは、おそらく空間性を欠いた何事かとしての「現場」であるらしいこと、そんなことをあれこれ考えていたせいかもしれません。ソーシャル・ワークと人類学のあいだには、近代ヨーロッパの形成過程で、ほとんど境界を画しがたい起源の分有点が見いだせるかぎり、聞きとりの対象となった人々を「統治」に内在化させる身ぶりから、声をひたすら「聴く」というただそのことだけに懸けながらソーシャル・ワークが乗り越えてきた壁を、はたして人類学はいま、新たな破局のはじまりにさいして、おなじように乗り越えられるのか。統治と操行のはざまに、はたして「身を置くべきイエスの現場」は現れるのか。

フェミニスト神学の問いと沖縄からの問いに続けてふれながら、あらためてまた遠く近くたしかに谺してきたのは、ことばでは到底(そして当然)指し示せないほど重い、 上間陽子さんのあのかけがえのない労作 『裸足で逃げる』から響いてくる、嗚咽を噛み殺す小さな声の重なりだったように感じています。