2017年2月15日水曜日

伊東剛史・後藤はる美 編 『痛みと感情のイギリス史』

東京外国語大学出版会より、下記の論集を
来月刊行する予定です。

伊藤剛史・後藤はる美 編
『痛みと感情のイギリス史』
東京外国語大学出版会、2017年3月刊行予定。

[出版企画概要より]
17~20世紀のイギリスをフィールドとして、神経医学の発達、貧者の救済、聖職者の処刑、宗教改革期の病、魔女裁判、夫婦間の虐待訴訟、動物の生体解剖 などを題材に、6名の研究者が史料に残された〈生きられた痛み〉を照らし出し、感情史の射程と、それを取り巻く問題を説き明かす。

[目次]--------------------

無痛症の苦しみ(伊東剛史)
 

Ⅰ 神経 医学レジームによる痛みの定義(高林陽展)
 

Ⅱ 救済 19世紀における物乞いの痛み(金澤周作)
 

Ⅲ 情念 プロテスタント殉教ナラティヴと身体(那須敬)
 

Ⅳ 試練 宗教改革期における霊的病と痛み(後藤はる美)
 

Ⅴ 感性 18世紀虐待訴訟における挑発と激昂のはざま(赤松淳子)
 

Ⅵ 観察 ダーウィンとゾウの涙(伊東剛史)
 

ラットの共感?(後藤はる美)
 

痛みと感情の歴史学(伊東剛史/後藤はる美)
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この概要からもうかがえるように、本論集が感情史研究の最前線の仕事として話題にのぼることは、まちがいように思われます。 論集の刊行に先立って、このほど紀伊國屋書店の電子情報サービス KINOLINEも、じつにエッジの効いた情報ページを立ちあげてくださいました。 

『痛みと感情のイギリス史』と Eary English Books Online
      - 伊藤剛史先生・後藤はる美先生・那須敬先生 座談会
http://www.kinokuniya.co.jp/03f/denhan/chadwyck/umi/eebotalk.htm

編者の伊東剛史さんと後藤はる美さんに出版会編集事務室でいちどお会いしたさいにも、論集の熱気は存分に伝わっていたのですが、今回の情報ページは、EEBOのとてつもなく巨大な存在感もふくめ、知的刺激にみちています。座談会中の発言をふたつだけ、以下引用します。座談会全文を、ぜひ上記ページでご一読ください。満を持して来月刊行の論集本体も、ぜひお手にとってくださるよう、みなさまにお願いします。

伊東先生
 「一言でまとめれば、痛みとは何かという問題を、歴史学の視点から考えてみたものです[…]痛みがわたしたちの生に対して根源的な問いを投げかけるという理解は、もしかしたら歴史を通して一様だったわけではないのかもしれません。[…]歴史を辿り、時間を遡っていくと遂には痛みという言葉、つまりpainという文字が(少なくとも私たちの想定するようなかたちでは)資料に登場しない社会が現れます。 たとえば、17世紀半ばにクリストファー・ラヴという牧師が大逆罪により処刑されました。その処刑は、斬首刑で、公開され、多くの人々の注目を集めました。 しかし、処刑の様子がどれほど痛々しいものだったのか、ラヴ本人が経験した苦痛はどれほどのものだったのか、これを直截的に想像させる史料は残されていません。 もちろん、だからといって当時の人々は痛みを感じなかったのかというと、そういうわけではありません。 そうすると、そういった時代の、そのような社会での痛みはどういったものだったのだろうか、私たちの捉えている痛みの感覚とどのように異なっていて、どのように繋がっているのかという問いが出てきます[…]」

 那須先生
 「我々17世紀のイギリス史をやっている研究者にとってEEBOとは、British Libraryのリーディング・ルームに座るようなことなんです。 リクエストすればなんでも出てくる。それに取り替わったという感じですね[…]だから、何にせよ調査を始めるときには、まずEEBOを引く。二次文献を読んでいて、面白そうな一次史料を使っているなと思ったら、すぐEEBOで確認する。EEBOは図書館なんですよ。まず図書館に行くようにまずEEBO。そういう感じですね。」

2017年2月7日火曜日

ルフォール 『民主主義の発明』

クロード・ルフォールの主著が、このほど日本語訳で刊行されました。

クロード・ルフォール著
『民主主義の発明 - 全体主義の限界』
渡名喜庸哲・太田悠介・平田周・赤羽悠 訳
勁草書房、2017年1月25日発行。

原著: Claude Lefort, L'invention démocratique. Les limites de la domination totalitaire. Paris: Fayard, 1981/1994.

もし「全体主義」と「民主主義」の両者が互いが互いを前提とするような不可分のようなものなのだとすれば、「全体主義」の姿を「限界」まで追跡することなくしては「民主主義」そのものの意義についても理解できないだろう。「全体主義」とはそもそも何か、今日われわれがさしあたり「民主主義」だと思っているこの社会は本当にそう呼ぶのにふさわしいのか- そもそも「民主主義」って何だ、そうした問いを提起しつづけようとする者には、ルフォールの硬く鈍い衝撃は確かに伝わるにちがいない。 (本書所収、渡名喜庸哲「解説 クロード・ルフォールの古さと新しさ」より )

非常に喚起力のあるこの解説論文では、ルフォールの政治哲学における基本的な論点が、さらなる問いをうながすしかたで、二点明記されているように受けとめました。
ひとつは、 「全体主義国家は、民主主義に照らしてしか、そして民主主義の両義性にもとづいてしか把握できない」という、ルフォールの基本テーゼ。
ひとつは、 「政治的なものの場を、「人民」や「群衆」といったなんらかの主体なり実体なりによって占められることのない「誰のものでもない場/空虚の場」として捉え」るという、ルフォールの基本了解。
そして、これらふたつの問いが交叉する地平に、全体主義と民主主義の分節=節合点が現れてくることになるのだと思います。

権力という空虚な場に、大文字の〈人民〉が埋め込まれ〈一なる身体〉として凝固しつつ全体主義へと転化するのを妨げるために、民主主義はつねに内的抗争を通じて自分自身を多数化させ、自らを「ふたたび創出=発明するréinventer」必要がある……  (渡名喜「解説」p. 407および ルフォール本文p. 369より。一部編集)

渡名喜さん、太田さん、平田さんの連名で、本訳書の御恵送にあずかりました。
このたびのすばらしい贈り物、ありがとうございます。
共同研究の一環で、あの運動の現場、周防灘・祝島に渡名喜さんと一泊した晩が昨日のことのようです。

2017年1月21日土曜日

カッチャーリ 『抑止する力』 / アガンベン 『哲学とはなにか』

昨年末から年明けにかけて、上村忠男氏が新たな訳書2点を刊行されました。

マッシモ・カッチャーリ 『抑止する力-政治神学論』
      上村忠男訳、月曜社、2016年12月25日発行。

ジョルジョ・アガンベン 『哲学とはなにか』上村忠男訳、
             みすず書房、2017年1月25日発行。

 カッチャーリの著作で主題となるのは、カール・シュミットが『大地のノモス』で言及する『新約聖書』中の謎めいた形象「カテコーン」、すなわち「抑止する力」をめぐる新たな神学政治論です。
 たとえばそれは、神の意志の深淵のなかに書き込まれたものとして「正体を明かさないまま、教会のなかにとどまりつづけている反キリストたち」の姿。その抑止的な存在にひそむ力の両義性から、相手の存在理由をなんらかの仕方で承認するような〈仲介=媒介〉の空間が開かれていくことになります。
  しかし、現実の歴史のうちでカテコーンの抑止的な力が危機を迎えるとき、 当のカテコーンによって維持されていたプロメーテウス的秩序が、エピメーテウス(プロメーテウスの弟)の時の到来により復讐されることになるというのが、著者カッチャーリの予測です。とりわけ、世界の現在と未来を展望する本書末尾の一文は、読み手を戦慄させることになるかもしれません。

「プロメーテウスは引退してしまった。あるいはふたたび岸壁に縛りつけられてしまった。そしてエピメーテウスがわたしたちの地球を徘徊してはパンドラの壺の蓋をつぎつぎに開けて回っている」 (159頁)

エピメーテウスが扉をひらいてしまう永続的な危機の時とは、かつて『政治神学』のシュミットが、「例外状況」についてふれたのち鮮やかに描いてみせた、ドイツロマン派の「永遠の対話」と、そしてあの「純粋決定/決意」の対立と、どこまで交叉した問題系を形成しうるのか、大いに興味を惹かれるところです。

 アガンベンの訳書の方は、付録もふくめ5篇の論文から構成されています。
 このうち分量として訳書のほぼ半分をしめる第3論考「言い表しうるものとイデアについて」 では、問いの斬新な腑分けが冒頭から示されます。すなわち、「言い表しえないもの」が、非言語的なものとして言語活動そのものよりも「先に置かれ」てきたのは、ひとつの前提にすぎない。「言い表しえないものは言語活動の外部で正体の不分明な〈先に置かれた〉ものとして生じるのではなく、そのようなものである以上、言語活動の内部においてのみ絶滅させられうるのである」(65頁)。そしてこの特質とちょうど呼応するしかたで、もう一方の「言い表しうるもの」とは言語学的なカテゴリーではなく、存在論的なカテゴリーであることが論じられていきます。この言い表しうるもの、すなわち「認識可能なもの=グノーストン」に対応させつつかつてストア派で論じられた概念「レクトン」をはじめ、「場所/切り離し」を意味する概念「コーラ」にまで言及の奥行きを展げながら、イデア論の構制における「言い表しうるもの」の存在論が精緻に説き明かされていくという内容です。

 今週終了した秋学期の講義では、「孤独」「声」「音楽」といったサブテーマとも連動させながら、ほとんど不可能性を宣告された「共同」性がそれでも帯びうる潜勢力のゆくえを、非力ながら論じてきたつもりです。 半期をつうじて自分なりに試みた問いは、一種の力の存在論ですが、それも存在の諸層を注意深く剥離していく類のオントロジーというより、たとえば所有対象にも所有論の対象にもなりえない、存在それ自体の明証性を顕示するための論理の可能性でした。同じアガンベンのテクストでこれを喩えれば、「なんであれかまわない存在」を基調としつつ織りあげられた『到来する共同体』(上村忠男訳、月曜社、2012年)の後半にある、「外」と題された3ページほどの小文を理解することの可能性に繋がっていたような気がします。「哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる」という一文ではじまる、本訳書の末尾におかれた美しい付録論考「詩歌女神(ムーサ)の至芸-音楽と政治」にしてもそうですが、年度後半の講義を終えたこのタイミングで「声」と「音」の問題をこのように深く問う訳書にふれることは、望外の歓びです。

2017年1月12日木曜日

卒論・ゼミ論発表会 2016


à la Malaisie, mars 2008 (Ichiro MAJIMA)
今年度は下記のとおり、卒論&ゼミ論発表会を開催します。

日時: 1月24日(火) 午前9時30分より
場所: 研究講義棟3階333教室

今年の3年ゼミ生の15名のうち、4人は夏合宿を終えてそれぞれ長期留学に旅立ち(イタリア、インドネシア、カナダ、フランス)、のこる11名が懸命に力を尽くし、正月明けに無事全員、ゼミ論最終稿を提出しました。

ゼミ初の卒論提出者3名は、就活や家庭の切り盛りのただなかでよく耐え、どの方も見事な考察の生産者となりました。

タイトルは以下のとおりです。
(執筆者名略、順不同)






【4年生 卒業論文】
「シャルリ・エブド襲撃事件から考察するフランス国内の不平等-大統領の声明やデモが与えた影響」
「他者を引きいれるために-『イマナの影』における痛みの記憶」
「セミノール族と奴隷制度-ブラック・セミノールと呼ばれた人々の自己決定をめぐって」

【3年生 ゼミ論文】
「ケアワーカーの高齢者観とエイジズム-その特徴的な形態と要因、改善に向けた取り組み」
「宗教的マイノリティとして生きること-タイ山岳少数民族と仏教教育の関りについての考察」
「2008年5月「移民」襲撃事件-南アフリカ共和国における「移民」労働者の排除」
「接近しえない領域への接近-ピュリッツァー賞受賞作品「ハゲワシと少女」を巡って」
「日本人女性と「家庭」をめぐる「性」の解放-1965年から1974年にかけてのミニスカートの流行から」
「日々日雇い労働者として東京に生きること-1960年代の山谷を中心として」
「アフリカにおける利便性の向上と課題-タンザニアの日常生活に見える事例から」
「何故人々は他人の食べる姿に注目するようになったのか-韓国のモクバンの事例から」
「『虹の国』南アフリカ共和国のLGBTを取り巻く状況について
                           -1980年代以降同性愛者権利運動の歩みを通して」
「中華街の沈没」 (創作作品)
「日本の学歴社会における教育機会の不平等-親が子どもの進路決定に与える影響を通じて」

2017年1月6日金曜日

謹賀新年

au Liban, août 2009 ( I. Majima)


























  新年明けましておめでとうございます。
  Je vous présente, à vous tous mes semblables en Afrique,
                         mes meilleurs voeux pour la Nouvelle Année.     Ichiro Majima, alias Nousla Zèngbeu