2019年12月4日水曜日

佐原敦子 ヴァイオリンリサイタル


       
ヴァイオリニストの佐原敦子さん(藝大フィルハーモニア管弦楽団第1バイオリン奏者)から直接ご案内をいただいて、初冬の晩、ひとりトッパンホールへ。

すべての曲目に魅了されましたが、なかでも1921年の無伴奏曲、「レントヘン:無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジー」の渾身の演奏には、時と場所の感覚を失うほど、魂をもっていかれました。
またとなく素敵な夕べを届けてくださいまして、
ありがとうございました。
 


佐原さんとは、3,4年まえの少人数の集いで初めてお会いしました。そのときやはり知りあった(当時の私の企画で助けてくださった)NHK 番組制作チーフ・ディレクターの上野智男さんが手がけられた、奥深くも静まりかえるドキュメンタリー番組を、ちょうどこの秋に再放送で鑑賞し、音楽と生のかかわりについてしばらく考えていたところでした。

「漂泊のピアニスト
  アファナシエフ もののあはれを弾く」
   (NHKBSプレミアム、2008年初放送、112分)

今月14日も再々放送があるようです。一流の表現者としてのお二方を、演奏・映像ともに、とても眩しく感じています。

2019年11月16日土曜日

臨在


開花期間の歴代最長記録を更新した、自宅晩秋の入谷朝顔。
ひらききらずに潰える花をのぞけば、おそらく今朝のこの赤が、
最後の一輪となるでしょう。4か月ものあいだ、よくがんばってくれました。

2019年10月19日土曜日

これは君の闘争だ


明後日の月曜に、TUFS Cinemaで下記作品が上映されます。

「これは君の闘争だ Your Turn」(監督:エリザ・カパイ、ブラジル、2019、93m)

日時:2019年10月21日(月) 18:30開映 (18:00開場)
場所:東京外国語大学アゴラ・グローバル プロメテウス・ホール)
入場無料、先着順(定員501人)、申込不要
上映後トーク 舛方周一郎氏(神田外語大専任講師、国際関係論、ラテンアメリカ政治)

山形国際ドキュメンタリー映画祭2019でも今月上映されている、注目の問題作。
ぜひご来場ください。

あらすじ:
公共交通機関の値上げ反対デモや、公立高校再編案に反対する学校占拠など、活発な政治運動を繰り広げるブラジルの学生たち。その記録映像に、当事者である3人の若者たちがナレーションを重ねていく。若者たちは、その歌うような軽快な語りとともに、学校を、そして街頭を次々と占拠し、政治家たちに自らの主張を認めさせていく。しかし彼らのこうした試みにもかかわらず警察の対応はより暴力的なものになっていき、ブラジルは極右政権の誕生へと向かっていく。

詳しくはコチラ→ https://tufscinema.jp/191021-2/

2019年10月13日日曜日

un souhait


des feuilles du jacaranda avec la pleine lune de la mi-octobre, et une image floue d'un masque dan à l'arrière-plan

2019年9月1日日曜日

『世界』 特集- アフリカ 人々が変える大陸

先日、金井真紀さんの巻頭イラストについて紹介した『世界』9月号を手に取りました。 同号には、特集のひとつとして、今日のアフリカをめぐる価値ある論考5篇が掲載されています。うち1篇は、ニャムンジョのウブントゥ論。

フランシス・B・ニャムンジョ(梅屋潔 訳)
「アフリカらしさとは何か-ウブントゥという思想」『世界』924:184-196、2019年9月1日発行。

「ウブントゥイズムは、他人の人間性を損なうようなことをする人は、たとえ一時的に完全だと思われたとしても、実は完全ではないのだということを私たちに教えています。人間がそれ自体では不完全だという認識をもたらすのです。では、このウブントゥイズムの考え方がみんなに成功をもたらし、社会的に異質なものを包みこむことができるのはいつでしょうか[…]関係にもとづいて何かを求められたときに、どこまで真剣に考えるべきであり、どこからであれば無視してもいいのでしょうか[…]私がここで考えてみたいのは、アフリカの移民と残された家族や友人との間の緊張関係なのです」。

問いを掲げたうえでニャムンジョが語りだすのは、トーゴ出身のサッカーのスター・プレーヤー、エマニュエル・アデバヨールの家族関係にまつわる、強烈な物語です。西アフリカのとくに都市部で生活したことがあれば、経済的に多少とも成功した隣人の暮らしを不断にさいなむ家族の関係性が、悪夢のように規模を極大化させたこの事例。

「この話は完全にアデバヨールの視点、つまり狩る側ではなく狩られる側の視点から語られていますから、彼ほどの人が、なぜ家族の略奪のなすがままになっているのか、疑問に思う人もいるかもしれません。苦労して稼いだものは自分のものだと、個人の権利を主張することはできたはずです。彼がこの一歩を踏み出さなかったのはなぜでしょうか」

「アフリカの移民の多くは、どのように、そして誰に送金するかについて、非常な注意を払っています[…]アデバヨールの例でお話ししたように彼らの多くは、一種のオポチュニズムの犠牲になってきました[…]しかしそれでも、残された家族関係や友人関係を理由に現れるオポチュニズムを、特定個人のわがままとか非倫理的行動として責め立てることには実りがありません[…]オポチュニズムの暴走を契機として[…]自分も狩られる側になりうるし逆もそうであるという狩りの本質に立ち返り、狩るものと狩られる者とを、ふたたび結びつけなければいけないのです[…]アフリカ人の移住というものは、ウブントゥ精神のもとに、変化し続ける世界のなかで本当の人間になろうとする経験の不可欠な一部である、ということ[…]」

論文に先立って訳者の梅屋さんが添えている解説文も、非常に参考になります。異なるだれかと共に生きていくという終わりのない物語のなかで、たとえ私たちが今日の世界性をめぐって「どうしたらいいのか」についての処方箋が欲しくなっても、手軽な、短絡的な処方箋など、どこにも用意されていないことを、梅屋さんはニャムンジョの人間論と繋げています。

どうしたらいいのか、の問いをすぐさま起動させずにいない「理性」の時間は、たとえば『ツナミの小形而上学』から目を背けてきた、特殊な時間論であったこと。名指しがたい何ごとかの発現を「オポチュニズム」の一言で全否定したりはしない、あらたな操行の時間を想像すること。