社会人類学者の齋藤剛さんが、モロッコ・ベルベル社会をめぐる精密なモノグラフを発表されました。
齋藤剛
『〈移動社会〉のなかのイスラーム - モロッコの
ベルベル系商業民の生活と信仰をめぐる人類学』
昭和堂、2018年2月28日発行。
本書は、著者の齋藤さんが1998年以来、20年にわたって継続されてきた現地調査と研究の集大成です。
先行研究を捉えかえす次元では「民衆イスラーム論」の相対化や、「聖者信仰」という問題設定の脱本質化を試みたうえで、じっさいに人びとが移動を通じて日常的に形成している生活空間と社会関係の広がりのなかで、当の聖者信仰を再検討すること、それが本書の主たる問題意識といえるでしょう。
「聖者信仰の主体的な担い手や、廟という物的シンボルを中心とした場から遠く隔たった治療の現場において、多義的な解釈のうちに一閃の光彩を放つかのように現れ消えてゆく「聖者信仰的な世界」。そのような瞬間的な場面においても聖者信仰が生きられているのだとするならば[…]聖者信仰を特定の場や参詣客と結びつける視点は修正されなくてはならないだろう」 (本書第七章より)
2018年3月12日月曜日
2018年3月5日月曜日
『総合人類学としてのヒト学』
環境人類学・災害人類学を専攻される高倉浩樹さんが、放送大学の印刷教材として、新たな視座に立った人類学の導入テクストを編集・刊行されました。
高倉浩樹 編 『総合人類学としてのヒト学』
放送大学教育振興会、2018年3月20日発行。
「本書の狙いは、文化人類学や生物(形質)人類学双方の視点を踏まえながら、ヒトの理解を総合的に行うことである。厳密に言えば、生物人類学そのものというよりも、その隣接分野である人類生態学や生態人類学、霊長類学などの知見を導入することで、文化(社会)人類学を総合化することを目指した。
具体的には、地球のエネルギー収支や環境生態系における人間社会の位置づけに触れた上で、どのような過程をへて現在にいたるのか、食料摂取を含む幅広い意味での資源利用技術、分配とその社会効果、有用なものを価値づけるという意味での象徴体系とそれを支える信仰的信念、近代国家のような高度化された政治体制を含む社会組織の多様な特徴などが内容である。いずれのテーマでも多様性を支える普遍的なしくみが生物学的基盤と何らかの関わりがあることに触れることを心がけた。」 (本書「まえがき」より)
たとえば、この一文の末尾に記された「生物学的基盤」を、ヒトという、有限な生そのものの基盤として読み換え捉え返すならば、ここで提起されている発想のしかたが、「統治」も「破局」も含めた今日の世界性全般を端的に反映していると考えることもできるでしょう。
高倉浩樹 編 『総合人類学としてのヒト学』
放送大学教育振興会、2018年3月20日発行。
「本書の狙いは、文化人類学や生物(形質)人類学双方の視点を踏まえながら、ヒトの理解を総合的に行うことである。厳密に言えば、生物人類学そのものというよりも、その隣接分野である人類生態学や生態人類学、霊長類学などの知見を導入することで、文化(社会)人類学を総合化することを目指した。
具体的には、地球のエネルギー収支や環境生態系における人間社会の位置づけに触れた上で、どのような過程をへて現在にいたるのか、食料摂取を含む幅広い意味での資源利用技術、分配とその社会効果、有用なものを価値づけるという意味での象徴体系とそれを支える信仰的信念、近代国家のような高度化された政治体制を含む社会組織の多様な特徴などが内容である。いずれのテーマでも多様性を支える普遍的なしくみが生物学的基盤と何らかの関わりがあることに触れることを心がけた。」 (本書「まえがき」より)
たとえば、この一文の末尾に記された「生物学的基盤」を、ヒトという、有限な生そのものの基盤として読み換え捉え返すならば、ここで提起されている発想のしかたが、「統治」も「破局」も含めた今日の世界性全般を端的に反映していると考えることもできるでしょう。
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2018年3月1日木曜日
ファム・コン・ティエン 『深淵の沈黙』
もう嘆くな、めそめそ泣くな、葬儀の歌はもうやめろ! 伝記も物語も図書館も博物館も捨てちまえ!
死人は死人に喰わせておけ。で、俺たちは! 生者は、深淵のふちで踊ろうじゃないか、最後の絶
息の舞踏を! 精一杯の舞踏を! (ヘンリー・ミラー 『北回帰線』)
これは著者自身[=ティエン]の実存の叫びそのものだ。この常軌を逸しているとしか言いようのない叫びが、
一九六〇年代後半、泥沼化していくベトナム戦争の時代の狂気の真っ只中で叫ばれていたことに、私はあらためて戦慄を覚える。 (本書「訳者解説」より)
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「俺はハイデッガーやヘラクレイトスを血と涙で読むというのに、教授どもときたら近視眼でしか読めない」
「どうして私はまだ語らなければならなかったのだろうか、突然、沈黙が出現したというのに!」
「言語は再び創造されなければならない、人間は再び創造されなければならない。創造は、暴動の最後の意味 だ。創造を恐れることは命懸けになろうとしないことだ。創造は尊敬ではない」
(ティエンの言葉、同「訳者解説」より)
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比類もなく壮絶な叫びを内蔵させたベトナム語の思想書が、いま初めて言語の壁をこえ、しかも半世紀の歳月をこえて、日本の読書界にとどけられました。畏友、野平宗弘さんによる、事件としての訳業。
ファム・コン・ティエン 『深淵の沈黙』 野平宗弘 訳、東京外国語大学出版会、2018年2月28日発行。
1967年、ベトナム戦争の渦中にある旧南ベトナムの首都サイゴンで弱冠26歳のティエンが発表したこの著作は、ほかならぬベトナム戦争に牙をむく思想闘争の具現でした。
「20世紀の科学は、 西洋形而上学の成就である。西洋形而上学は、現在のベトナムでの過酷な戦争において成就した」
「到来するベトナム思想は、その超越的性格に向かわなければならない。簡略して言えば、〈越性〉(l'essence du Viet Nam)へと向かわなければならないのである」
ならば、いかにして。
ティエンのいうところ、それは西洋的思惟における重大な欠損としてハイデッガーが(不十分なしかたであれ)告発した、存在論的差異の忘却、すなわち「存在者」との差異において弁別されるべき「存在」そのものの忘却を乗り越え、深淵のうちに存在を、ティエンの表現によれば〈性〉を成就させることである。したがって、ひとまずは、「存在者」の圏域を成り立たせてきたいっさいの言語的意味、表象を破壊したうえで、問う主体と世界とがただ剥き出しの「ある」としてのみ残った状態に到る必要がある。しかし、そうした絶対的沈黙への到達をもってすべてが終わるわけではない。ひとたび無となり沈黙となった世界から、ここでふたたび叫びが出来し、それとともに「深淵の沈黙が突如、〈性〉と〈越〉とを響かせ」るのだから。
この場合の叫びとは、夜のただなかで、善悪の彼岸に響きわたる哄笑ともいえるでしょうか。あるいは、なぜニーチェは沈黙しなければならなかったのか。深淵を覗くとき、深淵もまた…。
来月以降の新年度には、『ヒロシマの人々の物語』、『実存主義から経済の優位性へ』、『至高性』の精読に歩を進めていく予定の、月曜5限のバタイユ演習に、絶好のサブテクストが登場したようにも、個人的には感じています。
「[…]訳者の私がささやかながらただ願うのは、この時代、この世界の「夜」に耐え忍びながら、どこまでも深い己の「闇」を見つめる者たち、そんな「孤独な鳥」(サン・フアン・デ・ラ・クルス)たちのもとに本書が届けばいいということだけである」 (同「訳者解説」より)
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2018年2月27日火曜日
上村忠男 『ヘテロトピアからのまなざし』
上村忠男先生の五冊目の批評論集が刊行されました。
上村忠男 『ヘテロトピアからのまなざし』未來社、
2018年2月20日発行。
年代としては2012年以降に発表された批評の集成ですが、とくに第Ⅳ部の論考群が、人類学的思考にとってのヒントをふんだんに含んでいるように思いました。
とはいえ、第Ⅰ部のヘテロトピア論も、第Ⅱ部のソレル、アガンベン論も、第Ⅲ部の沖縄論も、わたしにとってはすべてが人類学的に(とりわけ社会人類学的に)響いてくるのですが。
巻末の、5年分におよぶ「ビブリオグラフィティ」も、さらなる読みへの指針としては万華鏡にちかい光を帯びていて、大いに学べます。
上村忠男 『ヘテロトピアからのまなざし』未來社、
2018年2月20日発行。
年代としては2012年以降に発表された批評の集成ですが、とくに第Ⅳ部の論考群が、人類学的思考にとってのヒントをふんだんに含んでいるように思いました。
とはいえ、第Ⅰ部のヘテロトピア論も、第Ⅱ部のソレル、アガンベン論も、第Ⅲ部の沖縄論も、わたしにとってはすべてが人類学的に(とりわけ社会人類学的に)響いてくるのですが。
巻末の、5年分におよぶ「ビブリオグラフィティ」も、さらなる読みへの指針としては万華鏡にちかい光を帯びていて、大いに学べます。
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2018年2月24日土曜日
池田昭光 『流れをよそおう』
このブログでも以前お仕事を紹介したことのある文化人類学者、
池田昭光さんが、このたびモノグラフを発表されました。
池田昭光 『流れをよそおう - レバノンにおける相互行為の人類学』 春風社、2018年2月25日発行。
博士論文(首都大学東京、2015年提出)をもとに上梓されたという本書は、同時に、2014年の重要な論考「流れに関する試論」でみずから示した視軸を、池田さんがあらためて丁寧に説きなおしたテクストとみなすこともできそうです。ミクロな情景にそそがれた観察眼の鋭敏さと、隣りあう他者にむけた閑かな優しさとが共存する、稀有な魅力を湛えた一書の出現です。
宮本常一から、三木亘、堀内正樹へと連なる「非境界的思考」の系譜を、「コミュニケーション」の問題系として捉え返しながら誠実に受け継いでいこうとするときの著者の筆致は、ひときわ端正です。
「[…]三木はよく「つきあい」という言葉を用いる。ある個人が、各々の暮らしの必要性の中で、他人とどのような関係性を取りかわして生きているか。[…]三木には[…]論考で取りあげる人びとの民族的背景に共通点を持たせようという意識が全くない。一見すると相互の民族的文化的共通性のない、およそばらばらなバックグラウンドをもった人たちがゆきかう場、それ自体を浮かび上がらせようとしている[…]歴史や民族をはじめとする社会文化的なカテゴリーよりも「人間移動のカルチャー」に目を向ける姿勢には、宮本常一からの影響が表れている[…]例えば、宮本が京都の祇園へ出かけたときに、故郷の周防大島で行われる祇園祭を思い出して書いた文章[…]仲間と連れ立ってお宮へ行く。浮きたつ心で桃を買う。神輿は出るが、必ずしもそこだけに人が集まるのではない。参拝したらそれで帰宅する。特にこれという中心を抽出するのではなく、人びとの感情や行為を書きとめ、人びとの用事が済めばそれに合わせて筆を止め、それ以上の立ち入った記述をしようとしていない。ここには、読者に対して、情報を集約して祭りの全体をながめられる絵柄を提示しようという構えがほとんど見られない」
「[…おなじく三木の場合も…]「つきあい」という表現を重視していることからもわかる通り、コミュニケーションに対する着目が極めて強い。[…そして]通常、我々が社会文化的なものを把握するのに不可欠とする地名の希薄化が、書法の上ではかられている[…]個人を特徴づけ、その固有性を示すかに見える地名も、実は通過点のひとつに過ぎないかのような扱われ方をしている。むしろ、通過した先にある人びとの暮らしという、それ自体は極めてありふれたように思われる部分が強調されているのである」 (いずれも本書「第二章」より)
たとえば、『忘れられた日本人』に頻出する、あのじつに印象的な「世間」の描写が、わたしなどには想起されるような一文です。
ここからさらに池田さんは、「言語化しがたいものの方へと議論を展開させようとしている」堀内正樹の「対話」イメージに注目したうえで、第Ⅱ部の「より微妙なコミュニケーションの側面を論じうる事例」、すなわち「流れ」と「流れをよそおう」事例群の繊細な描写へと向かっていきます。
「流れ」とは、「他者の固定的な解釈から逃れ、自らの行為や語りによる境界の発生を避けつつ、そうした行為や語りを遂行しようとする人びとの様態」である[…]その中心となるのは「境界が露わになるのを避けること」である。宗派の違いが露わになるのを避けることや、シャッターを閉めたいとは思いながらも締めようとする素振りを見せないという現象に、こうした「流れをよそおう」行為を見出すことができるのである」(本書「第四章」より)
ジャン=ポールの挿話、アシュラフの挿話は、やはり本書の記述(法)の白眉だと強く感じました。
おすすめの好著です。
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