2019年7月28日日曜日

暑中見舞



暑中お見舞い申しあげます。
例年おなじ店でもとめる入谷の朝顔も、生きものゆえ、歳々、鉢にあたりはずれが出てきます。
ことしは団十郎が艶やかで、また青の爽やかな鉢でした。むかしの和服の青。

2019年7月26日金曜日

『ケベック詩選集』

フランス語圏文学研究の立花英裕さんを共編訳者とするケベック詩、邦訳初のアンソロジーがこのほど刊行されました。

立花英裕・真田桂子 編訳
後藤美和子・佐々木奈緒 訳
『ケベック詩選集-北アメリカのフランス語詩』
          彩流社、2019年6月24日発行。

「ケベックの詩に自然への賛美や恐れはあるが、単純な花鳥諷詠の文学ではない。18世紀中葉からイギリスの植民地支配下に服するようになり、1839年にイギリス政府に提出された有名なダラム報告書で「歴史も文学ももたぬ民族」と侮蔑されたフランス系カナダ人は、たえず未来への漠とした不安にとらわれてきたし、自分たちにどのような意味づけをしたらよいのかという、根源的な問いを発してきた。ケベックの詩に死者への拘り、記憶への執着が目立つのは、そうした植民地状況と密着している」

「ケベック詩には内向的・内省的な性格があるが、愛国主義的な系譜もある。むしろこちらの方が、ケベック詩の原点だと言わなくてはならない。この愛国的な潮流は総じてカトリック色が強いが、同時に、喪失を嘆く詩でもある。ケベックの愛国主義は、挫折を味わった人々の土地への愛着に根ざしている[…]クレマズィやフレシェットの流れを汲む愛国的な詩が脱宗教化し、それがネリガンの創始した叙情詩と融合したとき抵抗の詩が立ち上がり、「静かな革命」期の高揚へと向かっていく[…]「ケベック」を発明したのは詩だと言っても過言ではない」
                        (いずれも立花氏による「訳者あとがき」より)

本書は、ローラン・マイヨとピエール・ヌヴーが編んだケベック詩の代表的なアンソロジー『ケベック詩-その起源から現代まで』(2007年版)を底本としながら、そこには収められていない詩人の作品も新たに加え、総勢36人の詩作を訳出した労作です。今夏、味読をおすすめします。

2019年7月6日土曜日

香港、どうなってんの?



今週月曜に、学内で下記の企画が実施されました。
緊急開催「香港、どうなってんの?  Urgent talk: What's going on in Hong Kong?」

日時:2019年7月1日(月) 17:50-19:30
場所:東京外国語大学227教室
予約不要・出入自由・入場無料


逃亡犯条例をめぐり揺れる香港。
毎日ニュースで耳にするけど、一体何がどうなっているの?
香港人留学生と香港研究者がわかりやすく説明します! (フライヤー案内文より)
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研究講義棟内の各階エレベーター前には、常時さまざまな研究会、シンポジウム、特別講義などのフライヤーが色とりどり掲示されていますが、そのなかで逆にひときわ目立っていた、モノトーンの一枚。「緊急開催」の文字にまず引きつけられたあと、タイトルにも案内文にも、学生からの強いメッセージが込められているのでは、と直感しました。どれだけ忙しくても出て学ぼう。すぐにそう決めました。ひとつ心配だったのは、会場が227教室という、200人以上を収容できる大きめの教室であること。しかも、週初め平日の夜で、来週から学期末の試験期間に入るというこのタイミング。関係の学生たちが頑張って準備をしたのに、もし会場がガラガラになっていたら。つらい…。

当日の227に時間ぎりぎりで駆けつけ、恐る恐る教室の扉をそっと押してみました。5限も終わった18時前で、みんな部活にバイトにと忙しい日々を送っているはずなのに、なんと教室は学生たちでほぼ満杯。ムンムンです。そして開会。同僚の教員・倉田明子さんが、最初に香港の過去と現在を簡潔的確に説明したあとの壇上は、司会進行役の大学院生1人と、香港出身で現在外大に籍をおいている学部留学生3人だけ。倉田さんは、もうパワポのスクリーン画面を調整したり、タブレット録画の状態をチェックしたりと黒子状態にカンペキ回って、学生によるメッセージ伝達のヘルプ役に徹しています。

香港から留学してきた学友3人が、ひとりひとり現在の香港の社会情勢について、じつに穏やかな口調で、しかし胸の内に秘めた力強いメッセージを会場に届けていきます。香港市民による抗議デモの現状を伝える、数分間の生々しい報道映像がスクリーンに映し出されると、会場の雰囲気はさらに一変したように感じられました。壇上のプレゼンテーションがひととおり終わると、質疑をもとめる司会のひと声に、教室のあちこちからサッと手が挙がります。質問やコメントを述べる学生の所属は、東アジア専攻だけではありませんでした。こちらではポーランド語科の学生が、あちらではアラビア語科の学生が、留学生のメッセージをきちんと受けとめ、自分なりの考えを丁寧に示すことに専念している。私のゼミに所属しているフィリピンや中央アジア専攻の学生の顔もみえます。企画終了時間の19時30分になるまで、途中退室する学生は10人もいませんでした。教室内のやりとりを聴いていて何より感銘をうけたのは、壇上の留学生も、オーディエンスとして駆けつけた学生たちも、全員がおとなの発言者としてふるまい、この明かしえぬ共同体にしずかに集い、そしてしずかに解散していったことです。ここはやはり、都内でも稀有な空間へと開かれた大学で、自分はこんなにもスゴイ学生たちと日々場を同じくしているのだと、今回もまた、掛け値なしに実感したしだいです。

この集会の開催日時として選ばれた「7月1日」は、香港の歴史にとり、いうまでもなく特別な意味をもつ日付。「立法院占拠」の香港発速報にふれたのは、この日帰宅したばかりの21時頃のことでした。

聴き手に分かりやすいメッセージとなることを配慮して、
この日壇上からみごとな日本語で思いを伝えてくれた香港からの留学生のみなさん。
あなたたちのメッセージは、聴衆の若い学友たちにしっかりと届きました。
通い合いの瞬間は、それぞれの日々の果実です。
自分たちの手でみごとな企画を立ててくれて、ほんとうにありがとう。

2019年6月20日木曜日

ギンズブルグ『政治的イコノグラフィーについて』

カルロ・ギンズブルグの新たな訳書が刊行されました。

カルロ・ギンズブルグ
 『政治的イコノグラフィーについて』
  上村忠男 訳、みすず書房、2019年6月11日発行。

原書タイトルを直訳すれば『畏怖・崇敬・恐怖-政治的イコノグラフィーにかんする五つの試論』となる本書は、ギンズブルグが1999~2009年に発表した論考5篇を収め、2015年にミラノで刊行されました。

上村忠男氏の「訳者あとがき」によれば、このうち明示的には第一論考と第四論考にしか現れていないものの、図像の発揮する政治的効果をテーマとした本書の考察には、ヴァールブルク由来の概念「パトスフォルメル/情念定型」が、共通の着想源として見出せるといいます。

そのことは、著者本人による「序言」でも明示されています。生前のヴァールブルクが歳月を通じ、ほとんど強迫観念のように立ち戻っていたこの概念の最大の特質とは両義性、すなわち芸術作品で表現された情動的身振りにおける意味内容の反転(かれのいう「エネルギー論的反転」)であった。それは若き日のヴァールブルクが出会った、チャールズ・ダーウィンの著作『人間と動物における感動の表現』中の指摘-「発作的な笑いと涙のような両極端の感動状態のあいだに認められる隣接関係」、あるいはダーウィンがそのさい引用するジョシュア・レノルズの発見-「相対立する両極端の情動が、たいした違いもなく、同一の動作で表現されている」事態と、響きあう着想だったのだと。

たとえば、ホッブズの省察にみとめられる「恐怖」と「崇敬」の両義的合流。そのことを探る歴史家の視線が、『リヴァイアサン』の扉頁を飾るあの有名な図像のうちに、「病気の瘴気から保護してくれると信じられていた嘴型の仮面で顔を覆った、ペストの防疫にあたる2人の医師の、高さ3ミリメートルの肖像」(本書70-71頁)を発見していたことには、さすがに驚かされました。
 
ヴァールブルクの思考に、パトスフォルメルへの欲動/からの強迫がたえず伏在していたとすれば、以前にもこのブログでふれた『蛇儀礼』のうち、その際にはふれなかった別の一節が想起されてきます。

「民俗学をやりながら、おもしろおかしいものに笑ってしまう人は、間違っています。そういう人には、まさにその瞬間に、悲劇的要素を理解する可能性が閉ざされてしまうのです」
                              (三島憲一訳、岩波文庫版 37頁)

2019年6月5日水曜日

友常勉『夢と爆弾』

思想史研究の友常勉さんが、このほど新著を発表されました。

友常勉『夢と爆弾-サバルタンの表現と闘争』
           航思社、2019年5月31日発行。

本書は、著者が2012年以降に発表した論考群に、書き下ろしの考察2篇を加えた論集です。

「二〇一二年に河出書房新社から『戦後部落解放運動史 永続革命の行方』を出版したとき、その終章で、私は以下のようなことを書いた。資本制社会を相対化するために、さまざまなマイノリティと底辺労働者との出会いをこちらからつくる必要があると。そのとき念頭にあったのが寄せ場の労働運動であり、アンダークラスの闘争であった。本書に収録したテキストのテーマはそれぞれ異なっているが、そのなかで私が追求してきたのは、上記のことに尽きる」                    (本書あとがきより)

いずれも凝縮された密度からなる論考群の集成に、おもわず息を呑むような感覚をおぼえます。各論に言及のある、船本州治、桐山襲、出口なおといった固有名については、かねて立ち止まって熟考してみなければと思ってきた主題であり、また、大道寺についてはとくに収監後の辺見庸との交流を、高橋和巳については上原康隆が生前アパートに所持していた数少ない書物のひとつに『孤立無援の思想』があったことを、以前からどう捉えるべきか思いあぐねてきたところがあります。それだけに、本書からは多くを学ぶことができるように予感します。昨年6月にコメンテーターとして参加させていただいた、井上康・崎山政毅『マルクスと商品語』合評会(本ブログ掲載)におけるマルクス価値批判論のさらなる再考の契機も、本書から得られればと考えています。