2017年12月9日土曜日

『わたしは、幸福(フェリシテ)』 来週末公開

東京を皮切りとした日本版公開が来週末に迫り
『わたしは、幸福(フェリシテ』の広告記事が、
昨日金曜の
『朝日新聞』
『東京新聞』
各夕刊に掲載されました。


























日本語字幕版予告編 

2017年12月8日金曜日

ヤナマール書評

訳書『ヤナマール』が、このほど
月刊『公明』という雑誌(2018年1月号)で書評されました。
独特な視点です

2017年12月4日月曜日

平坦な戦場で僕らが…




「グローバル・スタディーズ」の秋学期受講生やゼミ生のみなさんには予告しているとおり、
今週8日(金)の6限に、吉田理佐さんと小田マサノリさんをお迎えしたトークイベントを研究講義棟で開催します。ぜひご来場ください。
2017年「インストール・アフリカ」プロジェクト最終弾。 (おそらく)当日のキーワード: ネコだいすき。

2017年11月17日金曜日

井上康 崎山政毅 『マルクスと商品語』

畏友の崎山政毅さんが、このほど井上康氏との共著で、とてつもなく重厚な理論書を発表されました。本年を締めくくる、と今から確言してもいい、圧巻の一書です。

井上康 崎山政毅 『マルクスと商品語』社会評論社、
                    2017年11月10日発行。

巻頭におかれた「はしがき」を一読するだに、この著作が投じる問いの根源性と射程の深さには、打ちのめされるような思いがします。「はしがき」から、以下すこし引用させていただきます。

「[…] 『資本論』初版(1867年)を世に問うに際してマルクスが求めた読者 […] 『資本論』がわれわれに求めているものをなおざりにした追究は、力能を備えた学知には至らないだろう。そしてそれらの説はなべて、貨幣主義に振り回されている。なぜならそれらの説を論じる者たちは、『資本論』冒頭商品論の最終目的を、資本主義的貨幣の生成の解明だと思い込んでいるからである。 […] マルクスのテキストそれ自体が冒頭商品論の部分で立てている問い、つまり「すべての商品に貨幣存在が内包されることを明らかにするには?」と、その問いの設定に内在する答えとを、確固として前景化させ復権させること - これこそがわれわれが本書で取り組んだ問題の中核に存しているものに他ならない」

「マルクス自身が序文で難解だと述懐しているのだから、 おそらく『資本論』初版を読み解けた人はごく僅かしかなく、ましてや「プロレタリアート」に届く筈もなかったのではないか。われわれは、エンゲルスもまた、『資本論』の、とくに冒頭商品論の十全な読解から程遠いところにいた、と考えている。[…]ドイツ語初版から第二版への「移行」=「改訂」において、叙述の卑俗化が施され、論理の後退が起きているのである。とはいうものの、論理の一方的な後退のみが生じている訳ではない。初版とは比較にならぬほど、ドイツ語第二版以降の冒頭商品論は理解するに容易な、明晰な叙述に変更されている。とくにその明晰さを示す概念が、「商品語」である。これは商品の擬人化ではなく、資本主義的商品が資本主義社会の基底的・支配的主体であることをみごとに表現するものと言っても過言ではない」

「[…われわれが、]1867年に刊行された初版の重要性に気がついたのは、30年ほど前のことになる[…その]転機は、1879年末から1880年初頭にかけてマルクスが書いた[…]アードルフ・ヴァーグナーの『経済学教科書』に対する批判的評注を、あらためて読んだことにあった。ヴァーグナーは『資本論』第二版を取り上げ評注したのだが、その評注に対する批判において、マルクスは、初版を改訂して世に問うた第二版における自説を否定しているのである。[…]ドイツ語第二版による初版の書き換えが叙述上の混乱をきたしていることを自己暴露しているのである」

「[…] 初版からドイツ語第二版、フランス語版、マルクスが没した直後のエンゲルスの手によるドイツ語第三版、そして1890年のエンゲルス編集第1巻=現行版の冒頭商品論を、文字通り舐めるように原文を比較検討しながら読み進め、繰り返し考察を加えた結果が、本書である […] 本書の目的は、『資本論』冒頭商品論の解読であり、それを第二版以降に述べられる「商品語」という概念に焦点をあてたうえで遂行するものである。」

ガーン! なんと根源的かつ壮絶な共同研究。凄すぎる。

つづけて、本書の理路として照準された、当の「商品語」についても、一箇所だけ引用させていただきます。

「[…] 20エレのリンネルは、自分に1着の上着を等置する。この関係において、「リンネルは、ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」とマルクスは言う。これこそまさしく、商品語の〈場〉の特有の在り様だ。言い換えれば、商品語の〈場〉は、人間語の世界のような線形時空をなしてはいないのである。一挙に多くのことが(たんに可算的に多いというだけではなく、非可算的に、と言ってもよい)、語られ実現される。[…] 商品語の〈場〉は、人間語の束縛の次元を超出している。[…このような]商品語の〈場〉を捉えるためには、諸商品がしゃべる商品語を〈聴き取り・人間語に翻訳し・注釈を加える〉必要がある。では、「ひとたたきでいくつもの蠅を打つ」というリンネルの語るところを、マルクスはどのように〈聴き取り・翻訳し・注釈を加えて〉いるだろうか。」 (pp. 148-149)

本書の元になった、『立命館文学』連載論文の抜刷を、わたしはちょうど3年前、2014年の11月に、崎山さんから直接手渡しでいただきました。わたしがダカールに滞在している間にかれが発表した論文( 「前衛の機械」、「アンデスのアヴァンギャルド」、etc.)の抜刷も。その晩は、多磨や調布の飲み屋を次々とハシゴして、明け方近くまで談論風発、清談と哄笑を肴に痛飲した記憶があります。あのときの紀要論考が、このように巨大な果実となって公刊されたことに、ただ感激するばかりです。

全600頁ちかい大著の付録として巻末に添えられた
「『資本論』初版(ドイツ語)、同第二版(ドイツ語)、同フランス語版各冒頭商品論出だし部分の対照表と各邦訳」も、読み手の検証をうながす、じつに貴重なテクストです。

「『資本論』 初版刊行150年、『帝国主義論』刊行100年という年に本書を刊行できることに深い感慨をもつ。」                                                        (本書「あとがき」より)

2017年11月15日水曜日

いま、なぜ「アフリカ」なのか?

 
なにか、新たなうねりが生じているようです…うれしい驚き。 


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いま、なぜ「アフリカ」なのか? 

11/27(月)『思想』×「東洋経済オンライン」×『WIRED』
編集長トークセッション開催!

https://wired.jp/2017/11/13/africa-talk-session/


岩波書店『思想』「東洋経済オンライン」とのコラボレーション・トークセッションが開催記念!

奇しくも今夏、ほぼ同時にアフリカを特集した『思想』『WIRED』と、アフリカでの激変するビジネスを追い続けている「東洋経済オンライン」。いま「アフリカ」に注目すべき理由を解題する、特別な時間となる[…]。

[…] まず交錯することのなさそうな3つのメディア、『思想』『WIRED』日本版、そして「東洋経済オンライン」が、「アフリカ」という意外なテーマで結びつくこととなった。11月27日に開催されるトークイヴェントでは3誌の編集長が初めて顔を合わせ、それぞれの観点から「いま、どうしてアフリカなのか?」を語り合う。バックグラウンドも、スタイルも、視点もまったく違うメディアの編集長が集う異色のトークは、「アフリカ」のビジネス、思想、カルチャーに注目する人のみならず、メディアビジネスに興味ある人も必見だ。                    (上記リンクページ案内文より)

2017年11月13日月曜日

上村忠男 『ヴィーコ論集成』

 
このたび、上村忠男先生の新著が刊行されました。

上村忠男 『ヴィーコ論集成』みすず書房、
                 2017年11月15日発行。

 上村先生の半世紀以上におよぶヴィーコ研究のエッセンスを集成したといえる本書は、函入り500頁超の大著です。

先生の半世紀におよぶ思想史研究の、さまざまな転機とともに厚みを増していったヴィーコ研究の見取図は、本書プロローグの「ヴィーコとヨーロッパ諸科学の危機」において、まず大掴みに想像できるようになっています。

ヴィーコの思想をまえにするとき、たとえばいかなる論点が、省察の起点にふさわしい問いの本質となり、それがいかにして現在の争点とも接続をとげることになるのか。本書の精読をつうじ、時間をかけてこの点を探究していきたいものです。

「[…]しかし、このデカルトによって切り拓かれた近代ヨーロッパ的な学問方法の危機が意識されるようになってすでに久しいこともまた事実である。知識の確実性を求めて「方法」の研磨に励めば励むほど、その一方で学問の生にたいする有意味性が見失われていく - ニーチェが『反時代的考察』の第二考察「生にとっての歴史の利害について」(一八七四年)において指摘し、フッサールも『危機』の冒頭において確認しているように、端的にいってこのようなアンビヴァレントな状況が、いまやいたるところで露顕するにいたっている。これはまたどうしたことなのか、原因はなんなのか、どこかがまちがっていたのだろうか、どこがまちがっていたのだろう。こう人々は深い不安のうちに自問しつつある」 
                                (本書、 「ヴィーコとヨーロッパ的諸科学の危機」より)

「[…ヴィーコの]『新しい学』における公理中の基本公理である「理論はそれがあつかう素材が始まるところから始まるのでなければならない」という公理 […デ・ジョヴァンニの指摘によれば…] ここには、〈思惟するわたし(cogito)〉の覇権のもとで単一の方法規則を繰り出しつつ事を始めようとするデカルト的始め方とは根本的に異なる、対象の多様性に即応した方法に準拠した真理の探究の必要性についての認識がある[…] デ・ジョヴァンニの論考においては、スピノザの反デカルト主義についてネグリもその線上に位置するところのドゥルーズ的な存在論的解釈と軌を一にした解釈が提示されたうえで、そこにヴィーコといういまひとりの反デカルト主義者にして同時に反スピノザ主義者でもあった人物の思想を比較対照的に並列させてみることによって、ひとつの注目すべき新たな問題局面が批判的に浮き彫りにされている[…]」
   (本書、「スピノザ、ヴィーコ、現代政治思想 - ビアジオ・デ・ジョヴァンニの考察の教示するもの」より)

2017年11月11日土曜日

わたしは、フェリシテ(幸福)

アフリカ映画のたいへんな傑作の出現です。アフリカ映画というより、わたし個人にとってはこれまで観てきた映画のうちでも、指折りの一作。FESPACO出品作のレベルまで設定を高めたとしても、これ以上の名品は、もうしばらく出てこないような気さえします。

『わたしは幸福(フェリシテ)』 Félicité
監督&脚本&編集 アラン・ゴミス     réalisé par Alain Gomis
129m、フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン

          2017年 ベルリン国際映画祭 銀熊賞(審査員大賞)
          2017年 FESPACO (ワガドゥグ全アフリカ映画祭) 長編映画部門金賞(グランプリ)

「彼女は幼い頃に一度死に、そのときフェリシテ(幸福)という新たな名前を与えられた。誇り高く、自分を折ることができない彼女は夫と別れ、バーで歌いながら、女手ひとつで息子を育てていた。賄賂や汚職にまみれたこの街はタフでなければ生きられない。容赦ない毎日。歌うときだけは、彼女のすべてが輝いていた。バーの常連、酔っ払いのタブーは、美しいフェリシテに気があるようだ。ある朝、フェリシテの家の冷蔵庫が壊れる。そしてその日、大切な一人息子が交通事故で重傷を負う。[…] 病院は前払いしなければ手術はできないと彼女に告げる。 金がすべてだ。愛する息子のため費用をかき集めるべく彼女はキンシャサの街を奔走するが……。フェリシテの幸福とは何だったのだろう。病院から戻った息子と冷蔵庫を修理する男。そして歌うこと。[…]」

「[フランスで育ったゴミスにとって…]キンシャサでの撮影は大きなチャレンジだったが、この映画はキンシャサで撮影されなくてはならなかった。完成した映画は、カサイ・オールスターズによる圧倒的なサウンドトラックの魅力のみならず、相対するかのように静謐なエストニア人作曲家アルヴォ・ベルトの音楽が重要な位置を占め、シングルマザーの困窮をリアルな描写で描く前半から深い森の闇の中に魂を見つめていく後半へ。[…]」 
                                 (いずれも、作品パンフレット「イントロダクション」より)

本作の監督アラン・ゴミスは、セネガル人の父とフランス人の母のあいだに生まれ、身近な縁戚関係として、ギニアビサウの一民族マンジャック Manjak のコミュニティとも繋がりをもちながら育ってきた人物のようです。そのかれがキンシャサで制作した本作にとって、上述のカサイ・オールスターズと、キンバンギスト交響楽団 -「キンバンギスト」ですぞ!- の音の力が欠かせざる存在だったことを、鑑賞者はすぐに理解することになるでしょう。移動する家系に生をうけたかれ自身が大いなる移動者であるゴミスのようなひとは、キンシャサの土地に立ち、キンシャサ独自の音にふれることで、「私たちにとってのアフリカ」ならぬ「アフリカである私たち」とその世界性を、たえず省察し、表現することになるのでしょう。

「Q: 映画の最後の詩はどういったものですか?
監督: あれはノヴァーリスの詩「讃歌から夜へ」の抜粋なんだ。面白かったのは、ドイツ語のテキストをフランス語に翻訳し、それをリンガラ語に翻訳したこと。ある哲学者によると、自分の特性の中に他者の空間を許したとき、他者の中に自分をみつけるそうだが、それがこの映画の中にもあると思う。この映画はキンシャサについての映画というより、むしろ「僕たち」についての映画なんだ。夜に呼びかけるノヴァーリスの詩は、今や消えさった19世紀のヨーロッパの伝統の痕跡に繋がっているとも言えるし、そこにアフリカが新しい命をもたらす。アフリカはグローバル化された世界の中心にあり、これからますますそうなっていく。僕にとって、それが現在だ。」
                                        (作品パンフレット 「監督インタビュー」より)

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日本の配給元ムヴィオラによる昨日の試写会で、暗闇のなか手さぐりで走り書きしたメモより。

・ 「夜には表と裏がある」 「おまえの女にもな」  (バーで、だれかとだれかが)

・ 夜のキンシャサで、あんなふうに酔っ払っていびきかいて道ばたで寝てみたい

・ アフリカの日常で、ひとが走ることがどれだけ異常か、ちゃんと何度も伝えてる

・ 森のくらやみの見えなさを、映像としてほぼ加工しないで長撮しするスゴさ

・ 「一人でいちゃダメだ」 (タブーが、サモに)


12月16日より公開: 日本語版公式サイト