2021年8月1日日曜日

暗黒に連なるうす暗い尻尾に…

 […]芸術という称号、それは暗黒にはとどかない[…]光はみずからの先端、みずからの前衛を恐怖する矛盾を犯し、そこに権力が露呈する[…]「光」の中で決定された「芸術」という称号のとどかないところ[…]にはただ露骨な好奇心だけがひたすら露呈され、そのとき踏みつけている暗黒の尻尾だけが、その唯一の引力となっている。その片足に全神経が集中し、振動している私たちの体にとって、あるいは私たちの予感を探知しようとしている光の先端にとっては、芸術という称号の助けは無意味であり、それを自由と名付けることも不必要とさえ思われる[…]うすれゆく光の先端全域の振動はやがて発覚し、明確な光がそこを照らし、その残された記録から推定して光がはじめてその振動を自由と名付けるだろう。しかしそこに明るく照らし出された尻尾は、すでに切断された尻尾の断片であり、そこで名付けられた「自由」とは、すでに固型し終えた領収書にすぎない[…]私たちの好奇心は、光という明確な意識、そこを統制する光源を離れたそのうす暗いゾーンではじめてあらわになるのだ。その暗黒に連なるうす暗い尻尾にそっていくとき、それはちょうどペスト菌によって占領された静かな街のように、そこではすべてが自由であり、すべてが危険である[…]自由であり危険であるもの、それが光にとっては無秩序であるとすれば、その街に無秩序をもたらすものは、あたかも私たち人類に対立するペスト菌の秩序のようでもあるが、それはむしろ平等というべきであり、ペスト菌の自由が、私たちをその街の自由の中に引きずりこむ。ペスト菌ではなく人類であり、光の先端でありながら光である私たちが、「光」にとって「ただ一つの暗黒」の中に「暗黒の無数」を探知しようとするとき必要なのは、いわばこの「ペスト菌の自由」である。私たちにかかわってくる相手の自由を発見することである。このようにして己れの内部の権力から墜落しながら発覚する自由、光源を遠く離れながらひたされていく自由、それが当然要求し、うす暗がりからふたたび強烈なわれわれの光をあびてあらわれるものに「オブジェ」がある。            (赤瀬川原平、1967「言葉の暗がりの中で」より)