2018年3月19日月曜日

キテキテ府中 FUCHU WORLD FESTIVAL

地元府中市によるイベント
「キテキテ府中」に、TUFSCinema進出!

昨年10月に外大キャンパスで開催して
たいへんな好評を得た『アフリカ ユナイテッド』を、
キテキテ府中の«FUCHU WORLD FESTIVAL»で
再上映することになりました。

予約不要、先着284名、入場無料!
Venez nombreux!

日時: 2018年4月1日(日) 18:30開場、19:00開映

場所: 府中市市民活動センター「プラッツ」バルトホール
     (ル・シーニュ5階)

上映後、小田マサノリさん & 真島によるフリートーク有

詳細は → https://tufscinema.jp/180401-1/
     → http://machidukuri-fuchu.jp/kitekitefuchu/
     → https://www.fes-info.com/fuchu-world-fes




  アフリカ・ユナイテッド予告篇 ↓(4月1日の上映会では日本語字幕が付きます) 




【参考】↓ 昨年10月に外大で上映したさいの会場配付資料






































2018年3月12日月曜日

齋藤剛 『〈移動社会〉のなかのイスラーム』

社会人類学者の齋藤剛さんが、モロッコ・ベルベル社会をめぐる精密なモノグラフを発表されました。

齋藤剛
  『〈移動社会〉のなかのイスラーム - モロッコの
   ベルベル系商業民の生活と信仰をめぐる人類学』
               昭和堂、2018年2月28日発行。

本書は、著者の齋藤さんが1998年以来、20年にわたって継続されてきた現地調査と研究の集大成です。

先行研究を捉えかえす次元では「民衆イスラーム論」の相対化や、「聖者信仰」という問題設定の脱本質化を試みたうえで、じっさいに人びとが移動を通じて日常的に形成している生活空間と社会関係の広がりのなかで、当の聖者信仰を再検討すること、それが本書の主たる問題意識といえるでしょう。

「聖者信仰の主体的な担い手や、廟という物的シンボルを中心とした場から遠く隔たった治療の現場において、多義的な解釈のうちに一閃の光彩を放つかのように現れ消えてゆく「聖者信仰的な世界」。そのような瞬間的な場面においても聖者信仰が生きられているのだとするならば[…]聖者信仰を特定の場や参詣客と結びつける視点は修正されなくてはならないだろう」 (本書第七章より)

2018年3月5日月曜日

『総合人類学としてのヒト学』

環境人類学・災害人類学を専攻される高倉浩樹さんが、放送大学の印刷教材として、新たな視座に立った人類学の導入テクストを編集・刊行されました。

高倉浩樹 編 『総合人類学としてのヒト学』
      放送大学教育振興会、2018年3月20日発行。

「本書の狙いは、文化人類学や生物(形質)人類学双方の視点を踏まえながら、ヒトの理解を総合的に行うことである。厳密に言えば、生物人類学そのものというよりも、その隣接分野である人類生態学や生態人類学、霊長類学などの知見を導入することで、文化(社会)人類学を総合化することを目指した。
 具体的には、地球のエネルギー収支や環境生態系における人間社会の位置づけに触れた上で、どのような過程をへて現在にいたるのか、食料摂取を含む幅広い意味での資源利用技術、分配とその社会効果、有用なものを価値づけるという意味での象徴体系とそれを支える信仰的信念、近代国家のような高度化された政治体制を含む社会組織の多様な特徴などが内容である。いずれのテーマでも多様性を支える普遍的なしくみが生物学的基盤と何らかの関わりがあることに触れることを心がけた。」 (本書「まえがき」より)

たとえば、この一文の末尾に記された「生物学的基盤」を、ヒトという、有限な生そのものの基盤として読み換え捉え返すならば、ここで提起されている発想のしかたが、「統治」も「破局」も含めた今日の世界性全般を端的に反映していると考えることもできるでしょう。

2018年3月1日木曜日

ファム・コン・ティエン 『深淵の沈黙』



    もう嘆くな、めそめそ泣くな、葬儀の歌はもうやめろ! 伝記も物語も図書館も博物館も捨てちまえ!
    死人は死人に喰わせておけ。で、俺たちは!  生者は、深淵のふちで踊ろうじゃないか、最後の絶
    息の舞踏を! 精一杯の舞踏を! (ヘンリー・ミラー 『北回帰線』)

 これは著者自身[=ティエン]の実存の叫びそのものだ。この常軌を逸しているとしか言いようのない叫びが、
一九六〇年代後半、泥沼化していくベトナム戦争の時代の狂気の真っ只中で叫ばれていたことに、私はあらためて戦慄を覚える。                                           (本書「訳者解説」より)
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 「俺はハイデッガーやヘラクレイトスを血と涙で読むというのに、教授どもときたら近視眼でしか読めない」

 「どうして私はまだ語らなければならなかったのだろうか、突然、沈黙が出現したというのに!」

 「言語は再び創造されなければならない、人間は再び創造されなければならない。創造は、暴動の最後の意味  だ。創造を恐れることは命懸けになろうとしないことだ。創造は尊敬ではない」

                                           (ティエンの言葉、同「訳者解説」より)
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 比類もなく壮絶な叫びを内蔵させたベトナム語の思想書が、いま初めて言語の壁をこえ、しかも半世紀の歳月をこえて、日本の読書界にとどけられました。畏友、野平宗弘さんによる、事件としての訳業

 ファム・コン・ティエン 『深淵の沈黙』 野平宗弘 訳、東京外国語大学出版会、2018年2月28日発行。

 1967年、ベトナム戦争の渦中にある旧南ベトナムの首都サイゴンで弱冠26歳のティエンが発表したこの著作は、ほかならぬベトナム戦争に牙をむく思想闘争の具現でした。

「20世紀の科学は、 西洋形而上学の成就である。西洋形而上学は、現在のベトナムでの過酷な戦争において成就した」

「到来するベトナム思想は、その超越的性格に向かわなければならない。簡略して言えば、〈越性〉(l'essence du Viet Nam)へと向かわなければならないのである」

ならば、いかにして。
ティエンのいうところ、それは西洋的思惟における重大な欠損としてハイデッガーが(不十分なしかたであれ)告発した、存在論的差異の忘却、すなわち「存在者」との差異において弁別されるべき「存在」そのものの忘却を乗り越え、深淵のうちに存在を、ティエンの表現によれば〈性〉を成就させることである。したがって、ひとまずは、「存在者」の圏域を成り立たせてきたいっさいの言語的意味、表象を破壊したうえで、問う主体と世界とがただ剥き出しの「ある」としてのみ残った状態に到る必要がある。しかし、そうした絶対的沈黙への到達をもってすべてが終わるわけではない。ひとたび無となり沈黙となった世界から、ここでふたたび叫びが出来し、それとともに「深淵の沈黙が突如、〈性〉と〈越〉とを響かせ」るのだから。

この場合の叫びとは、夜のただなかで、善悪の彼岸に響きわたる哄笑ともいえるでしょうか。あるいは、なぜニーチェは沈黙しなければならなかったのか。深淵を覗くとき、深淵もまた…。

来月以降の新年度には、『ヒロシマの人々の物語』、『実存主義から経済の優位性へ』、『至高性』の精読に歩を進めていく予定の、月曜5限のバタイユ演習に、絶好のサブテクストが登場したようにも、個人的には感じています。

「[…]訳者の私がささやかながらただ願うのは、この時代、この世界の「夜」に耐え忍びながら、どこまでも深い己の「闇」を見つめる者たち、そんな「孤独な鳥」(サン・フアン・デ・ラ・クルス)たちのもとに本書が届けばいいということだけである」                                             (同「訳者解説」より)