2014年12月17日水曜日

西成彦 『バイリンガルな夢と憂鬱』



















西成彦氏の新著が刊行されました。

西成彦 『バイリンガルな夢と憂鬱』 人文書院、277頁、2014年11月30日発行。

本書は、下記の既出論考六篇をまとめた論集です。
Ⅰ バイリンガルな白昼夢
Ⅱ 植民地の多言語状況と小説の一言語使用
Ⅲ カンナニの言語政策 - 湯浅克衛の朝鮮
Ⅳ バイリンガル群像 - 中西伊之助から金石範へ
Ⅴ 在日朝鮮人作家の「母語」問題 - 李恢成を中心に
Ⅵ  「二世文学」の振幅 - 在日文学と日系文学をともに見て

西氏が記すどのテクストからも放たれる、あるときは深刻なあるときは軽やかな、けっして模倣できない孤高の詩趣とでもいうべきものに、私はこれまでどれほど影響を受けてきたことかと、あらためて思います。

『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波同時代ライブラリー、1998年)に収められた「ざわめく本妙寺」というテクストは、音と声の問題を考えるたびに、わたしがいまでもかならず一度は読み返さずにいられなくなる一篇です。

論集『複数の沖縄』(西成彦/原毅彦 編、人文書院、2003年)で、序文も序論もないこの一書の巻頭をいきなり飾る論攷「暴れるテラピアの筋肉に触れる」 も、目取真俊の文学世界を考えるうえで、初めて読んだときには打ちのめされるような衝撃をうけました。

そして、わたしにとり決定的だったのは、2011年に発表された、あの長期連載稿の集成『ターミナルライフ』にほかなりません。 あなたにとっての『ターミナルライフ』論を書きなさいという課題がもしどこかで与えられたとして、私はこの一書に対し、いったい何枚の原稿をついやせば自分なりに休心できるのか、途方もないような気持になります。

今回の新著のうち、まずは第一章をやや緊張しつつ一読しました(初出は2007年のテクストですが、私は未読だったので)。それは知里幸惠論、ただし、「金田一のあずかりしらない時間のなかで、アイヌ語に拠り所を見出し、夢の作業のなかでもまたアイヌ語との逢引きを頻繁にくり返していた、そんなもう一人の知里幸惠」論でした。論攷の表題として西氏が照準をあわせる「バイリンガルな白昼夢」とは、『アイヌ神謡集』の彼女というより、むしろ若すぎるその最晩年に、幸惠が東京(本郷森川町)で書きつけたノート群・日記類から立ちのぼる、「バイリンガルな胸騒ぎ」の形象であることを知りました。

それぞれの表現者をとらえたはずの苦悩のうちにも、ありえたかもしれない希望を透視する批評の想像=創造。しかも本書が照準をあわせるのは、日本/日本語の内閉的な単一化を「はざま」で食い破ろうとする、近代帝国期のバイリンガリズムの再掘作業となるにちがいありません。