2015年2月17日火曜日

エルネスト・ド・ジャンジャンバック 『パリのサタン』


風濤社「シュルレアリスムの本棚」シリーズに、このほど新たな一書が加わりました。旧友の鈴木雅雄さんによる訳業です。

読み手にただ、ゴロッとした何かが
説明もなく投げ出されたまま、形容する手立もないその何かの力に、
読み手が圧倒されるばかりのテクスト、それは当のテクストを通じて書き手の姿が消失していく事態と並んで、民族誌の書法においては、かなえられない夢にちかい所業(というよりむしろ無為)に到る筈だと、かねて、文字どおり夢想してきました。そのような境位に達していると、一種の戦慄をおぼえながら読み手として判断できた夢の民族誌は、これまでにもなくはないものの、むろんごく稀有なことです。しかも、それが autobiographyならぬautoethnographyだとしたら…

「美しくも正しくもないが目を離すことのできない何か、シュルレアリスムはそれにこだわる」

「何十年かのち、シュルレアリスムという語はあらゆる奇妙なものを意味する空虚な記号として世界中で用いられるようになるわけだが、ジャンジャンバックはこの語をそのように用いた最初の一人だったかもしれない。
彼にとってシュルレアリスムは理解し実践すべきものではなく、利用すべきものだった。
必要なのは、キリスト教とは反対の方向に彼を赴かせようとする力に名前を与えることであり、その二つの力のあいだで引き裂かれているあり方を保証されることだけだったのだろう
[…]常に対立する二つの力のあいだで引き裂かれていなければならないこと、もし仮にそのどちらかを-結局はいつでも暫定的に-選ばざるをえないとしても、それが主体的な選択であってはならないこと[…]」

「このほとんど忘れ去られたテクストをめくるとき、私たちはそこにある抜き差しならない真実の声を聞きとる可能性を持つ。この目の眩むような落差だけがゲームの規則だ」
                                                   (訳者解説より)