2018年6月1日金曜日

竹内敏晴 ほか 『からだが生きる瞬間』


先月の初め、通りがかりの古書店で
三木成夫の『内臓とこころ』を見つけて買っていたことが、
今にして思えば、なにかの兆しだったのか。

先々週、私のゼミを第一希望にしている2年生たちと面談をしていたら、舞踊・身体系のテーマを考えている学生がめずらしく複数いたので、「だったらまずは竹内敏晴のあのバイブルだ」と思い、学校の部屋と自宅の書斎をどちらも探してみたのだが、いくら探してもみつからない。

『ことばが劈かれるとき』を初めて読んだのは、ちょうど自分も大学2年生で、見田ゼミの末席に興奮気味で加わっているころでした。見田宗介先生が、たしか十牛図やクンダリーニ・レッスンを導きの糸としながら、ご自身の思想を惜しげもなく授業でお話しになっていた、80年代前半。見田ゼミでこのバイブルの存在を知り、すぐに読んでいたとすれば、実家の書架に紛れこんでいる可能性もゼロとはいえまい。「ならばいさぎよく」とばかり、当時はなかった文庫版(!)をネット通販で取り寄せたのが、先週のことでした。

ガラス窓に身を打ちつける黄金のスカラベとは、こういう体験なのでしょうか。 それからわずか数日後にわたしは、「著者一同」として、このうえなく貴重な対談記録の御恵送に与ることができたのです。

竹内敏晴 ほか 『からだが生きる瞬間- 竹内敏晴と語りあった四日間』 (稲垣正浩・三井悦子 編)
                                               藤原書店、2018年6月10日発行。

     「衝撃作 『ことばが劈かれるとき』以来、「からだ=ことば」の視点から人と人との関係を問うてきた演出
      家・竹内敏晴が、スポーツ、武道など一流の「からだ」の専門家たちと徹底討論。「じか」とは何かという
      竹内晩年のテーマを追究した未発表連続座談会の記録を、ついに公刊」         (本書 帯より)

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 「竹内: 座禅を一つステップとして置くと、いろんなことがわかりやすくなるだろうと思いますね。たとえば、悟りを開いた場合の一つの例ですけれども。その境涯を問われて「体露金風」と答えるんですね。つまり「体が露わになる。秋風に裸の体をさらしている」と返事をした人がいるんです。[…]『ことばが劈かれるとき』を書いたときには、声が出て劈かれてそれから話すことができるようになったその喜び、みたいなものを書いた。そして、あのときに自分に劈かれたものはそれだけじゃないことがだんだんわかってきた。[…]」

「稲垣: 私が「劈く」でイメージするのは、子供にしろ大人にしろ、自閉していて中に何かがたまってはいるんだけれども、外からの働きかけがないと表出しない、そういう関係でのことではないかと思うんですが……。[…] 要するに、何かが働きかける。つまり、風がフッと吹いて「あっ、冷たい」というときに、皮膚をとおして冷たさを感じることによって、自分という意識がパッと現れる。快適な状態でボーッとしていれば何も考えないわけですよね[…]竹内先生のレッスンにも基本にそれがあるんだと思うんです。ですから、働きかけがあったときに反応する・しないという関係性が重視されるんだと思う。
竹内: 禅で言ったら「啐啄同時(そったくどうじ)」ですね。卵の中に入っていると親鳥が外からチョンチョンとやって、中からもチョンチョンとやって……。[…]」

 「劈く」ということを現象として説明すれば、ここで話し合われたようなプロセスになるわけですが、「劈かれた」体験としては、突然すみ慣れた「囲い」がふっとんで、世界の中に投げ出されて「あった」、ということです。望んだり予期したりするイメージもなく、あらかじめ胚胎するものも準備もない、いきなり襲いかかられる体験。だから新しい「意味」に到達できた、ということではない。「意味」以前の存在にふれている。いやむしろさらけ出されてある、ということでしょうか。これを「じか」と言っておきますか(この「無時間にある」ことは、バタイユの「恍惚」に共通するなにかがあるかとも思いますが)。」 
                 (本書「第二回 「じか」と「エクスターズ」」中の発言、および竹内による「後日追記」)

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「死は[…]それ自体に同一的な事物であると思い込んでいた個人、そしてまた他の人々からもそうだとみなされていた個人を破壊し、なにでもないものへと還元してしまう。そういう個人はただ単に事物たちの秩序のうちに挿入されていたというだけではない。事物たちの秩序のほうも個人の内部に入り込んでいたのであり、その諸原則に応じて個人の内部の一切を配置していたのである […だからこそ、これとは逆に]至高なモメントという問題[…が]二次的な問いとしではなく、有用な作業=作品の世界に穿たれた空虚を満たすべき一種の必然として提起されるということ […]                                                                                                                (Georges Bataille)