2017年1月21日土曜日

カッチャーリ 『抑止する力』 / アガンベン 『哲学とはなにか』

昨年末から年明けにかけて、上村忠男氏が新たな訳書2点を刊行されました。

マッシモ・カッチャーリ 『抑止する力-政治神学論』
      上村忠男訳、月曜社、2016年12月25日発行。

ジョルジョ・アガンベン 『哲学とはなにか』上村忠男訳、
             みすず書房、2017年1月25日発行。

 カッチャーリの著作で主題となるのは、カール・シュミットが『大地のノモス』で言及する『新約聖書』中の謎めいた形象「カテコーン」、すなわち「抑止する力」をめぐる新たな神学政治論です。
 たとえばそれは、神の意志の深淵のなかに書き込まれたものとして「正体を明かさないまま、教会のなかにとどまりつづけている反キリストたち」の姿。その抑止的な存在にひそむ力の両義性から、相手の存在理由をなんらかの仕方で承認するような〈仲介=媒介〉の空間が開かれていくことになります。
  しかし、現実の歴史のうちでカテコーンの抑止的な力が危機を迎えるとき、 当のカテコーンによって維持されていたプロメーテウス的秩序が、エピメーテウス(プロメーテウスの弟)の時の到来により復讐されることになるというのが、著者カッチャーリの予測です。とりわけ、世界の現在と未来を展望する本書末尾の一文は、読み手を戦慄させることになるかもしれません。

「プロメーテウスは引退してしまった。あるいはふたたび岸壁に縛りつけられてしまった。そしてエピメーテウスがわたしたちの地球を徘徊してはパンドラの壺の蓋をつぎつぎに開けて回っている」 (159頁)

エピメーテウスが扉をひらいてしまう永続的な危機の時とは、かつて『政治神学』のシュミットが、「例外状況」についてふれたのち鮮やかに描いてみせた、ドイツロマン派の「永遠の対話」と、そしてあの「純粋決定/決意」の対立と、どこまで交叉した問題系を形成しうるのか、大いに興味を惹かれるところです。

 アガンベンの訳書の方は、付録もふくめ5篇の論文から構成されています。
 このうち分量として訳書のほぼ半分をしめる第3論考「言い表しうるものとイデアについて」 では、問いの斬新な腑分けが冒頭から示されます。すなわち、「言い表しえないもの」が、非言語的なものとして言語活動そのものよりも「先に置かれ」てきたのは、ひとつの前提にすぎない。「言い表しえないものは言語活動の外部で正体の不分明な〈先に置かれた〉ものとして生じるのではなく、そのようなものである以上、言語活動の内部においてのみ絶滅させられうるのである」(65頁)。そしてこの特質とちょうど呼応するしかたで、もう一方の「言い表しうるもの」とは言語学的なカテゴリーではなく、存在論的なカテゴリーであることが論じられていきます。この言い表しうるもの、すなわち「認識可能なもの=グノーストン」に対応させつつかつてストア派で論じられた概念「レクトン」をはじめ、「場所/切り離し」を意味する概念「コーラ」にまで言及の奥行きを展げながら、イデア論の構制における「言い表しうるもの」の存在論が精緻に説き明かされていくという内容です。

 今週終了した秋学期の講義では、「孤独」「声」「音楽」といったサブテーマとも連動させながら、ほとんど不可能性を宣告された「共同」性がそれでも帯びうる潜勢力のゆくえを、非力ながら論じてきたつもりです。 半期をつうじて自分なりに試みた問いは、一種の力の存在論ですが、それも存在の諸層を注意深く剥離していく類のオントロジーというより、たとえば所有対象にも所有論の対象にもなりえない、存在それ自体の明証性を顕示するための論理の可能性でした。同じアガンベンのテクストでこれを喩えれば、「なんであれかまわない存在」を基調としつつ織りあげられた『到来する共同体』(上村忠男訳、月曜社、2012年)の後半にある、「外」と題された3ページほどの小文を理解することの可能性に繋がっていたような気がします。「哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる」という一文ではじまる、本訳書の末尾におかれた美しい付録論考「詩歌女神(ムーサ)の至芸-音楽と政治」にしてもそうですが、年度後半の講義を終えたこのタイミングで「声」と「音」の問題をこのように深く問う訳書にふれることは、望外の歓びです。