2017年2月7日火曜日

ルフォール 『民主主義の発明』

クロード・ルフォールの主著が、このほど日本語訳で刊行されました。

クロード・ルフォール著
『民主主義の発明 - 全体主義の限界』
渡名喜庸哲・太田悠介・平田周・赤羽悠 訳
勁草書房、2017年1月25日発行。

原著: Claude Lefort, L'invention démocratique. Les limites de la domination totalitaire. Paris: Fayard, 1981/1994.

もし「全体主義」と「民主主義」の両者が互いが互いを前提とするような不可分のようなものなのだとすれば、「全体主義」の姿を「限界」まで追跡することなくしては「民主主義」そのものの意義についても理解できないだろう。「全体主義」とはそもそも何か、今日われわれがさしあたり「民主主義」だと思っているこの社会は本当にそう呼ぶのにふさわしいのか- そもそも「民主主義」って何だ、そうした問いを提起しつづけようとする者には、ルフォールの硬く鈍い衝撃は確かに伝わるにちがいない。 (本書所収、渡名喜庸哲「解説 クロード・ルフォールの古さと新しさ」より )

非常に喚起力のあるこの解説論文では、ルフォールの政治哲学における基本的な論点が、さらなる問いをうながすしかたで、二点明記されているように受けとめました。
ひとつは、 「全体主義国家は、民主主義に照らしてしか、そして民主主義の両義性にもとづいてしか把握できない」という、ルフォールの基本テーゼ。
ひとつは、 「政治的なものの場を、「人民」や「群衆」といったなんらかの主体なり実体なりによって占められることのない「誰のものでもない場/空虚の場」として捉え」るという、ルフォールの基本了解。
そして、これらふたつの問いが交叉する地平に、全体主義と民主主義の分節=節合点が現れてくることになるのだと思います。

権力という空虚な場に、大文字の〈人民〉が埋め込まれ〈一なる身体〉として凝固しつつ全体主義へと転化するのを妨げるために、民主主義はつねに内的抗争を通じて自分自身を多数化させ、自らを「ふたたび創出=発明するréinventer」必要がある……  (渡名喜「解説」p. 407および ルフォール本文p. 369より。一部編集)

渡名喜さん、太田さん、平田さんの連名で、本訳書の御恵送にあずかりました。
このたびのすばらしい贈り物、ありがとうございます。
共同研究の一環で、あの運動の現場、周防灘・祝島に渡名喜さんと一泊した晩が昨日のことのようです。