2017年6月8日木曜日

池田昭光さんの仕事 -「宗派の外部」 「流れに関する試論」

à Beyrouth, 2009 ( I. Majima)
「[…] 筆者が調査をおこなっていた地方の町で、とある若い夫婦の自宅にいたときのことである。両人ともスンナ派のムスリムで、三人の子がいる。筆者は、この夫婦とその子どもたちと一緒に、居間でテレビを見ていた。とくにどの番組を見ようというのではなしに、父親がリモートコントローラーでチャンネルをときどき切りかえていた。そのうちのとあるチャンネルで、ギリシア正教のものと思われる礼拝の様子が映しだされた。すると、4歳ぐらいの息子がテレビに近づき、画面を指さして、「これはキリスト教徒だ」と、筆者に言った。その様子を見た母親は、すぐさまその子のほうへ寄った。彼女は、いくらか力をこめながら彼の腕をとって、「失礼でしょう」と言いながらテレビから引きはなした。そして筆者に向かい、険しい表情で「似たようなものです(mitl ba'ada)と主張した。そのとっさの出来事や、母親の剣幕にたいして驚いていると、彼女はふたたび、「ムスリムとキリスト教徒は、似たようなものです」と強い口調で言った。
   その後、筆者自身が同様な発言をしたときにも、類似の反応が返ってきた。そういうときは、筆者はたいてい、宗派間の関係について興味をもち、宗派集団にかんする自他認識について質問をしようとしていた。あるとき、ギリシア正教徒の女性が、マロン派のキリスト教徒はムスリムのように頻繁に礼拝をするとか、かれらは今でこそ裕福だがかつては貧しかったということを言った。つまり、「マロン派キリスト教徒」という集団概念を主語に立て、かつ、他の宗派との比較について話していたのである。そのため、この状況であれば、おなじように比較の視点をもちこみながら宗派間の関係について尋ねても大丈夫なのではないかと思った。そこで、ギリシア正教とマロン派のちがいは何かと尋ねてみた。すると、「みんな神に由来しているのです(kell min Allah) という返事がかえってきただけで、彼女はそれ以上の詳細を語ろうとしなかった。当初は熱心な様子でマロン派について語っていた女性が、いまや口をつぐんでいる。ひさしの張りだした屋外のスペースでコーヒーを飲みながら雑談をする、そんな穏やかな時間帯の会話だったのだが、話はそれ以上すすまなくなってしまった」    (「流れに関する試論」pp. 6-7)

 先月5月27-28日に、日本文化人類学会第51回研究大会(於 神戸大学)に参加してきました。学会の口頭発表にたいする感想としてはあまり用いられない形容かもしれませんが、わたしはそこで、じつに味わい深く、陰翳を織り込めたような余韻の残るプレゼンテーションに出逢いました。上ですこし長めに引用したテクストの書き手、池田昭光さんの口頭発表です。

池田昭光 「宗派の外部 -レバノンにおける相互行為を事例に-」
  (2017年5月27日、日本文化人類学会第51回研究大会、於: 神戸大学鶴甲第一キャンパス)

 一見したところ、ごく普通の発表内容を想わせる発表タイトルですが、先行研究との関わりから問題の所在を坦々と説く池田さんの語りの力に、おもわず冒頭からスーッと引き込まれました。
 レバノンの宗派主義をめぐる近年の研究のうち、J.Nuchoは、「人々の相互行為」を通じ「不断に形成されるもの」として、つまり「変わりゆくプロセス」としての「日常の宗派主義」を考えようとしてきた。池田さんはここからさらに一歩をすすめ、「移ろいゆく現在を通じて支えられるもの」としての宗派主義(または宗派主義に直接関わらない何か)が日常にふと顕現した二つの事例を、じつに繊細な省察のスタイルとともに提示します。そのうちのひとつが、上に引用した、スンナ派ムスリムの夫婦と子どもたちの、ある日のテレビ鑑賞風景でした。この事例について、池田さんがメモランダムの形式でまとめた要点とは、次のものでした。とりわけ、日常にほんのかすかな亀裂を滲ませる、一瞬のあえかな何事かの出来が、メモの最終部分で或る謎として輪郭づけられ、聴き手に投げかけられます。

・言葉、身振りを通して、宗派間の違いが露わになる
・違いから目をそむける、違いの顕在化を避ける
・「ある」ものが「ない」ことにされる。「しらないふり」
・「ない」ことにされても、元の「ある」は残る
     →「似たようなものです」 →「違う」が残る  (口頭発表「宗派の外部」パワポ画面より)

 研究大会で決められたわずか十数分の発表でしたが、これに感銘をうけたわたしは、帰宅後に上述の既発表稿を一読し、この池田昭光という書き手の、今までふれたこともない思考スタイルの魅力にすっかり嵌ってしまいました。あまり懇切な説明は添えられていませんが、なかでも「シャッターを閉める」という見出しの付いたこの論攷の第4節を、なぜジョルジュの挿話が占めねばならなかったのか、そのことの理論的な必然性を、読後もしばらく考えていました。

池田昭光 「流れに関する試論-レバノンからの視点」『アジア・アフリカ言語文化研究』87号所収、2014年。
(クリックで、全文閲覧可能 [東京外国語大学学術成果コレクション])