2017年11月8日水曜日

松村圭一郎 『うしろめたさの人類学』



「批判」から「再構築」へ 新たな時代の可能性、といういざないの言葉が帯の背表紙部分に記された、松村圭一郎さんのしずかな挑戦。

松村圭一郎
 『うしろめたさの人類学』ミシマ社、2017年10月5日発行。

「できれば人類学とは無縁の人に自分の言葉で届けたいという思い」で綴られた希望のメッセージは、だからこそ、発行直後から瞬く間に多数の読み手を得て、評判の一書となったにちがいありません。

なにより、「構築主義」という学問の表現を逆手にとらえて、これを「うしろめたい」というごく実感的な言いまわしにつなげたことで、メッセージの喚起力をいちだんと高めることができたんだと思います。

「構築主義の視点は、既存の秩序や体制を批判するとき、とても有効だった。[…]でも批判のあとには、どこか虚しさが残る。[…]構築主義には、視点を転換する力がある。でも、その核心は「批判」そのものにはない。もっと別のところに可能性があるのではないか。いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。そこに希望が芽生える。その希望が「構築人類学」の鍵となる。」 (本書「はじめに」より)

そして前半では、経済と感情と関係のつながりが、じつに分かりやすく説かれていきます。

「贈り物である結婚のお祝いは、お金をご祝儀袋に入れてはじめて、「祝福」という思いを込めることができる。と、みんな信じている。経済的な「交換」の場では、そうした思いや感情はないものとして差し引かれる。[…]経済と非経済の区別は、こうした思いや感情をモノのやりとりに付加したり、除去したりするための装置なのだ。[…] 「家族」にせよ、「恋人」にせよ、「友人」にせよ、人と人との関係の距離や質は、モノのやりとりをめぐる経済と非経済という区別をひとつの手がかりとして、みんなでつくりだしているのだ。でも、ぼくらがその「きまり」に縛られて身動きがとれないのであれば、社会を動かすことなんてできない。構築人類学は、どういう視点からそれをずらそうとしているのか。エチオピアの事例から考えてみよう。」(本書 pp.28-31)

「エチオピアの人びとは、よく物乞いにお金を渡している。きっとぼくらのほうが豊かなのに、そんな金持ちの外国人が与えずに、あまりもたないエチオピア人が分け与えている。その姿に、ふと気づかされる。いかにぼくらが「交換のモード」に縛られているのかと。[…交換のモードは] 面倒な贈与を回避し、自分だけの利益を確保することを可能にする。厄介な思いや感情に振り回されることもなくなる。しかし、この交換は、人間の大切な能力を覆い隠してしまう。[…] 身体の弱った老婆を目のあたりにして、なにも感じないという人はいないだろう。でも「交換」のモードには、そんな共感を抑え込む力がある。[…] 多くの日本人は道端で物乞いの老婆を目にしたときも、この交換のモードをもちだしてしまう。いろんな共感を引き起こしそうな表情とか、身なりとかを見なかったことにする。[…]同時にそれは、ぼくらがたんに日本に生まれたという理由で彼らより豊かな生活をしているという「うしろめたさ」を覆い隠す。[…] 共感とその抑圧。これが「構築」を考えるときのポイントになる」(本書 pp. 34-37)

「エチオピアの村で暮らす[…]人びとは、「民族」や「宗教」、「言語」といった固定した枠組みだけをもとに、「関係としての社会」を築いているわけではない。ともにコーヒーを飲み、たわいもない噂話に興じたり、体験談をおもしろおかしく話したりしながら、ひとつの「つながり」を実現させている。[…]「社会」というと、自分たちには手の届かない大きな存在に思えるかもしれない。でも、それはたぶん違う。[…]他人の内面にあるように思える「こころ」も、自分のなかにわきあがるようにみえる「感情」も、ぼくらがモノや言葉、行為のやりとりを積み重ねるなかで、ひとつの現実としてつくりだしている。この、人や言葉やモノが行き来する場、それが「社会」なのだ」(本書 pp. 80-82)

以前このブログでもご紹介した、池田昭光さんの「流れに関する試論」や「宗派の外部」も彷彿とさせる、みごとな解説につづけて、本書の後半では、「国家」や「市場」と「ぼくら」との関係が説かれます。

「国家という制度は、かならずしも上からの「権力」によって押しつけられているわけではない。一人ひとりが、意識するしないにかかわらず、日々さまざまな行為でその機能を内側から支えている。[…] 国家が決めた制度を使う人がいなければ、その制度は機能しなくなる[…逆に]誰もがその制度をあたりまえのものとして受容すればするほど、その制度は確固たるものとして、みんなを縛りはじめる。ぼくらは、こうして「国家」とつながっている。[…]でも、「わたし」の存在が国家と不可分だとしたら、「わたし」が変われば、「国家」も変えられるかもしれない。[…]自分の身体と国家の領域についての複数の想像力を手にすれば、少なくとも「わたし」と「国家」との重なりをずらして、そこに「スキマ」をつくれるはずだ。でも、どうやって……。」(本書 pp.100, 112)

「ぼくらは「国家権力」や「市場原理」といった言葉に惑わされてきた。[…]国家や市場は、あくまでいろんなかたちで連結し、依存し合って存在している。その依存の輪のなかに、「わたし」もいる。[…ただし/だからこそ、たとえば] その市場のとなりに「贈与」の領域をつくりだし[…]親密な関係をつくることもできる。現にぼくらは、そうやってささやかな顔の見える「社会」を構築している。[…]強固な「制度」のただなかに、自分たちでモノを与えあい、自由に息を吸うためのスキマをつくる力。それがぼくらにはある。国家や市場による構築性を批判するだけではなく、自分たちの構築力に目を向ける。それが構築人類学の歩むべき道だ。」(本書 pp. 153-154)

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うしろめたさの人類学であり、構築人類学であることとは、いわばスキマスイッチのあくなき探索宣言でもあったこと。論旨の基軸はそれゆえ、今夏の『思想』アフリカ特集号に松村さんが寄せられた力作 「分配と負債のモラリティ」とも、みごとに連動しているように思います。本書を贈ってくださったときの書状には、「(私なりの)インストール・アフリカ第1弾です」との一言が書き添えてくれてあり、わたしにもすぐさま、スキマスイッチが点灯。

本書には、 松村さんが最初にエチオピアを訪れたときの日記が、効果的なコラムのような体裁で、章と章のあいだに配置されています。これがまた、なんともみずみずしい記述。すごくいい、グッとくる、と感じた箇所だけでも、ここで紹介させていただきます。

「[…]そこでインジェラ(クレープ状の主食)と羊肉のスープを注文。出てきたものは、色が真っ赤。味は、それほど辛くない。おいしい。ほんとにおいしい。[…]」

「[…]ひとりのおじさんに声をかけられる。酔っ払いだ。[…] 彼のよくわからないアムハラ語で自慢話を延々聞かされて、うんざり。Sたちも合流して、一緒に夕食を食べ、飲み屋を回る。ドラフト・ビールを飲みすぎた。おれも酔っ払いだ。」

「[…]灯油を買いにガソリンスタンドまで。雲行きがあやしい。風も強まる。まもなく雨。しだいに強まる。抜け道を走る。ひさしぶりに走った。リクの実家へ逃げ込む。汗をかく。暑い。激しい雨が降り続く。」