2017年11月4日土曜日

チゴズィエ・オビオマ 『ぼくらが漁師だったころ』

                               秋の読書界に、粟飯原文子さんがアフリカ文学の
たいへんな贈り物を届けてくれました。ナイジェリア出身の1986年生まれ(!)の作家、チゴズィエ・オビオマの、まさしく衝撃のデビュー作です。

チゴズィエ・オビオマ  『ぼくらが漁師だったころ』
   粟飯原文子 訳、早川書房、2017年9月20日発行。

  厳しい父がいなくなった隙に、アグウ家の四人兄弟は
学校をさぼって近くの川に釣りに行った。しかし、川のほとりで出会った狂人は、おそろしい予言を口にした-。予言をきっかけに瓦解していく家族、そして起こった事件。一九九〇年代のナイジェリアを舞台に、九歳の少年の視点から語られる壮絶な物語。    (本書 表紙袖の作品紹介文)

 チゴズィエ・オビオマ Chigozie Obioma
 1986年、ナイジェリアのアクレに生まれる。ミシガン大学大学院創作課程を修了。2015年に発表したデビュー作である本書は、ブッカー賞最終候補に選出され、ロサンゼルス・タイムズ文学賞やフィナンシャル・タイムズ/オッペンハイマーファンズ新人賞など四賞に輝き、アフリカ文学に新星が現れたと英米文学界の話題を独占した。現在ネブラスカ大学リンカーン校で教鞭を執る。
               (本書 裏表紙袖の著者略歴文)

「…まだ最初の70ページほどを読んだだけですが、はじめから黙示録的な空気がたちこめているような作品で、緊迫します。(きのうはこれで電車を一駅、乗りすごしました…)」と、敬愛する粟飯原さんに訳書ご恵送の礼状をしたためたのが、9月の末。それからわたしは、覚悟を決めて、できるだけ時間をかけ、この訳書を味読しました。事件の到来とみなしてよい、真の意味での傑作。それが本作にたいするわたしの率直な読後感です。

現実の歴史のなかで作家が生きた限定的な時間と場所を、かれの生みだした作品がすぐさま圧倒的に凌駕し、乗り越え、いかなる読み手の情動にも、物語そのものの衝撃として次々に鮮烈な憑依をとげていく事態。

アフリカ文学でいえば、そうした事件は、ほとんど唯一、トゥトゥオラの作品群について発生した奇蹟であるように、これまでわたしは捉えていました。

発表当時の国内外の文壇で『やし酒飲み』がいかなる毀誉褒貶の対象となり、やがてはビアフラを経験してしまう独立前夜以降のナイジェリア政治史がトゥトゥオラ個人の生にいかなる陰影をおよぼしたにせよ、『やし酒飲み』が放ってやまないあの無尽蔵に強烈な力は、その種の「歴史」をはるかに超越していることを、読み手の多くは衝撃とともに作品それ自体から受けとってきたように想うからです。

簡潔ながら切れ味の利いた粟飯原さんの「訳者あとがき」では、この作品が、1990年代以降の国政の混迷ぶりを背景とした、ナイジェリアの「失われた希望の挽歌」であったことが印象的に説かれています(本作に登場する「M・K・Oカレンダー」のエピソードをいま想いだしても、わたしは胸が張り裂けそうになります…)。

そして、それと同時に、西アフリカのナイジェリアで生まれ育ったのち、キプロスでの滞在を経て、現在はアメリカへと移り住んでいるオビオマが、自分の作品を「ナイジェリア文学」や「アフリカ文学」のカテゴリーに押し込めるような扱いを拒絶していることも、粟飯原さんはバランスよく読者に示します。

「[オビオマは…]二〇〇九年、キプロスで暮らして二年が経過したころ、突然ホームシックに襲われた。そのとき、しばらく前に父親が電話で嬉しそうに語っていたことを思い出す - 総勢十二人きょうだいの「大連隊」において、成長過程でしばしばぶつかり合い、殴り合いの喧嘩もしていた上の二人の兄たちが強い絆で結ばれるようになったということだった。そこから、きょうだい愛や家族の絆について思いを巡らせるうちに、その対極の最悪の状態とはどういうものだろうと想像を膨らませ、アグウ家の悲劇の物語が浮かび上がってきたのだそうだ。『ぼくらが漁師だったころ』は普遍的な家族の絆とその崩壊の物語である、とオビオマは述べている」 (『訳者あとがき』 p. 371)

そんなオビオマが敬意を払ってきた作家のひとりがトゥトゥオラだという「訳者あとがき」の情報に、わたしはすこし茫然としました。まさにそれこそ、作品を味読している途中のわたしが想像していた通底器の姿だったからです。

「オビオマがトゥトゥオラに敬意を払うのも、トゥトゥオラの一般的には「土着的」と評される作品のなかに、「ギリシャ悲劇とシェイクスピア悲劇の混在」が読み取れるからである」 (『訳者あとがき』 p. 377)

ここでいう「ギリシャ」や「シェイクスピア」といった固有名から誤って受けとりかねない文化帝国主義の罠から逃れたければ、たとえばおなじナイジェリアのティヴ社会について、人類学者ローラ・ボハナンが1966年に発表した有名なテクスト「叢林のシェイクスピア」を一読してみればいいでしょう。(http://www.naturalhistorymag.com/editors_pick/1966_08-09_pick.html、邦訳もあり)

いずれにしろ、この作品『ぼくらが漁師だったころ』でオビオマが描きだした壮絶な悲劇には、トゥトゥオラの作品にほぼ匹敵する水準で、限定的な時空を超越した、物語の奇蹟が宿っている。読みすすめるごとに、わたしはその確信を深めていきました。

「蜘蛛は悲しみを背負う生き物だ。悲嘆に暮れた家に住みつき、糸をどんどん吐き出して、静かに、痛みを抱えながら巣を張り続け、ついには巣は大きく膨らんで、広い範囲を覆ってしまう - イボの人びとはそう信じている[…]蜘蛛はわが家に巣を張り、一時的な住み処を作った[…]蜘蛛たちはさらに一歩踏み込んで、母さんの心のなかにまで侵入してしまった[…]」(pp. 217-218)

「憎しみは蛭(ひる)だ。[…]憎しみは蛭のように肌に吸いつき、表皮にどんどん食い込んでいくので、皮膚から引き剥がそうとするとその部分の肉を傷つける。憎しみを殺すことは自虐行為なのだ。かつて火や熱したコテで蛭を焼くと、皮膚も一緒に焼いてしまっていた[…]オベンベの決意は、まさに蛭のようだったが、あまりに深く埋め込まれていたので、火を使っても、なにを使っても、取り除くことはできなかった」 (pp. 256+259)

「バヨさんはぼくの手を取って、ハンカチをそっとわたしてくれた。「さあ、涙を拭いて」
 ぼくはハンカチに顔を埋めて、ほんの一瞬でもいいから、燃え盛る炎に包まれた世界から逃れようとした。ぼくを、こんなちっぽけな蛾を、抹消しようとしている世界から。」(p. 348) 

「「ぼくらは漁師でした。兄さんたちとぼくは漁師になったのです-」
 突然、母さんが甲高い声をあげて絶叫し[…]」 (p. 365)

作品の筋書きに直接ふれないようにするには、これ以上の引用は困難です。読んでいる途中でわたしは、中上健次が23歳で発表したデビュー作「一番はじめの出来事」と、バタイユのつぎの一節を想起したことを、備忘録代わりに記しておきます。

「[…]供犠とはある意味で一個の小説、血なまぐさい形で解説された一篇の物語であった[…]ふだんは戦慄や不安のなかで与えられることのないものが、供犠において - または文学において - 人を魅惑する[…]供犠において人を魅惑するものは、ただおぞましいだけではない。それは神的である。それは供犠に適う神 - 人を惹きつけるが、死のなかへの消滅というただひとつの意味しか持たない神 - である。戦慄が介在するのはひたすらある魅力を引きたたせるためであり、この魅力は、犠牲が苦痛に満ちた最期へと進んで身をさらすことがなければ、強度を失うように思われるであろう。
 小説が供犠の運動の持つ厳密さに到達するのはまれである。」

     (ジョルジュ・バタイユ 『普遍経済論の試み 第二巻 エロティシズムの歴史』より、湯浅博雄・中地義和訳)